今朝、布団の中で

朝早く目を覚まし、起きるのもなんだしとグズグズしているうちに、布団の中で思いをめぐらす癖がついたようだ。今朝は学びのことを考えていると、この世が極楽浄土なのかな?とつい絵になった。教育懇談会の講師(話題提供者)にどんな人が良いかと考えていた。講師が参加者に何かを教え伝えると言う従来の発想では無く、極端な言い方だが、広い意味で人が他者から学ぶ学習あるいは教育そのものの講師は子どもでも老人でも、障害を持っていようとボケていようと関係ない。人は誰でも、固有の価値観と感覚を持っているはず。学ぶとは自分に無い価値観や感覚と自分をすり合わせ、新しい価値を生む営み。そう考えると人間観も変わり(5体満足)が幸福の条件のように思われているがそうではないはず。仮に障害や病気を持ち経済的・生活的に自立できなくても良いではないか。周りの人が面倒を見ればいい。所詮人は持ちつ持たれつの関係にあるし、特定できないほど多くのものによって生かされてるという事実の上にいる。誰がどのぐらいの価値を持つかは、本人によらず学ぶ他者による。現実は(実子殺しの母親の過去と現在のことも浮んだが)極楽とは程遠いが、本来はそうあるべきだしその可能性を持っているはずだ。布団の中での夢心地の空想だったかもしれないが本当にそう思え、ほうとした。とかく悲観的になりやすい中で、久々頭の中にいい絵が描けた。(学び)は極楽への切符。学びを誘発する(指導や学習は)は学びへの条件作りだからいいとして、同じ(指導や学習)の言葉で服役や地獄への追い込みにもなりかねない。現在は「暗い夜道での甘い言葉」が多すぎる。切符を間違えないようにしなくちゃ。

 

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