世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
心に引っかかっていること
かなり以前からこのブログに自分の名前や住所を明記していないことが気にかかっている。とかく社会批判の多い内容だが、匿名が何か無責任で卑怯な感じがしないではない。教員の現役時代、学校に自分の名前をかたらず、抗議してくる電話が時々あった。気持ちのいいものでは無い。それを今は自分がやっている。
家族や友達にも何度か相談したが、全員に反対された。「一人よがり」だという。
確かにニュースでもウエブ犯罪のことが報道されていた。エッチメールが次々来たり、カミソリの刃 が送られてくることもあったという。実際今でも気になる反応はある。読む人はともかく私は特定の政治的な立場や思想を持っているわけではない。文化や教育のあり方を経験を通して述べているだけだ。
現実はそう甘くないだろうとは思うが、こんな老人でもあれこれ気を使い閉塞した気持ちになることがある。思想表現の自由なんてよく言うわ。子ども達も同じ気持ちかもしれない。どこかで踏ん切りがつき、実名で堂々と発信できたらなーと思う。
家族や友達にも何度か相談したが、全員に反対された。「一人よがり」だという。
確かにニュースでもウエブ犯罪のことが報道されていた。エッチメールが次々来たり、カミソリの刃 が送られてくることもあったという。実際今でも気になる反応はある。読む人はともかく私は特定の政治的な立場や思想を持っているわけではない。文化や教育のあり方を経験を通して述べているだけだ。
現実はそう甘くないだろうとは思うが、こんな老人でもあれこれ気を使い閉塞した気持ちになることがある。思想表現の自由なんてよく言うわ。子ども達も同じ気持ちかもしれない。どこかで踏ん切りがつき、実名で堂々と発信できたらなーと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
教育懇談会構想
今私がやり残している感じの物のなかに
子ども達に現在の地球の様子を知らせ、心の準備をしてもらうことと、子どもや教育を語る場の(教育懇談会)設定がある。後者のイメージを今描いている。
現役時代は学級の保護者会とは別に教育懇談を学校や地域で定期的にやっていた。
あるときは全市に呼びかけたこともあった。今描いてるのはそれとはイメージ的にかなり違っている。
参加者全員が対等で啓蒙するような意図を持た無い。参加者全員が(学び)の主体者として他者に語り他者の話を聞き一人ひとりが自分の中ですり合わせ、自らの見地を広げる。言い換えると子どもや教育のことを教育的な関係ですり合わせるというものだ。以前は講師を準備したりして参加者にためになる話を提供する意味合いがかなりあったし、時には教育行政を批判する場になったりもした。
これは仮に主張が正しいとしても教育的な関係は成立していない。(当時は今ほど意識していなかった)今これだけ教育的関係(信頼関係のことだがカウンセリング
で言う(ラポート)のような、人間観を含む哲学的な意味を持つ。)が地域はもとより学校だけでなく家庭からも社会全体に剥げ落ちたような現在、教育を本来の教育的な手法で論ずるそういう場の設定が求められているのではないだろうか。
同じような仲間が集まって他を批判するのではなく、立場や考えの全く異なる人たちが互いに意見の異なる人たちを学びの対象として向き合う。ちゅおっとおっげさだが、教育基本法の改正を主張する人と反対する人が、自分の学びの対象として同席し学びあう。学校の学びも本来そうではないだろうか。10人が10人書いた絵は異なる。その絵は上手いか下手だけではないだろう。自分の経験ではどんな障害を持った子どもも、自分には真似のできない価値観や感性を備えていた.それにはたった一人の例外も無かった。当然大人もそうではないか。
理想論になるかもしれないが、立場や意見の異なる人たちが大きな声で他を圧するような場ではなく、ジャズやオーケストラのようなすばらしい空間が生まれはしないか。今社会教育センターでフリースペースのような活動をしているが、子どもは年齢も性も言葉のある子も無い子も一緒に遊んでいる。時には泣かしたりなかされたりもするが、この世の楽園かと思わせるような雰囲気になることもある。大人にできないことは無いではないかと思う。友達とはじめるつもりだ。
子ども達に現在の地球の様子を知らせ、心の準備をしてもらうことと、子どもや教育を語る場の(教育懇談会)設定がある。後者のイメージを今描いている。
現役時代は学級の保護者会とは別に教育懇談を学校や地域で定期的にやっていた。
あるときは全市に呼びかけたこともあった。今描いてるのはそれとはイメージ的にかなり違っている。
参加者全員が対等で啓蒙するような意図を持た無い。参加者全員が(学び)の主体者として他者に語り他者の話を聞き一人ひとりが自分の中ですり合わせ、自らの見地を広げる。言い換えると子どもや教育のことを教育的な関係ですり合わせるというものだ。以前は講師を準備したりして参加者にためになる話を提供する意味合いがかなりあったし、時には教育行政を批判する場になったりもした。
これは仮に主張が正しいとしても教育的な関係は成立していない。(当時は今ほど意識していなかった)今これだけ教育的関係(信頼関係のことだがカウンセリング
で言う(ラポート)のような、人間観を含む哲学的な意味を持つ。)が地域はもとより学校だけでなく家庭からも社会全体に剥げ落ちたような現在、教育を本来の教育的な手法で論ずるそういう場の設定が求められているのではないだろうか。
同じような仲間が集まって他を批判するのではなく、立場や考えの全く異なる人たちが互いに意見の異なる人たちを学びの対象として向き合う。ちゅおっとおっげさだが、教育基本法の改正を主張する人と反対する人が、自分の学びの対象として同席し学びあう。学校の学びも本来そうではないだろうか。10人が10人書いた絵は異なる。その絵は上手いか下手だけではないだろう。自分の経験ではどんな障害を持った子どもも、自分には真似のできない価値観や感性を備えていた.それにはたった一人の例外も無かった。当然大人もそうではないか。
理想論になるかもしれないが、立場や意見の異なる人たちが大きな声で他を圧するような場ではなく、ジャズやオーケストラのようなすばらしい空間が生まれはしないか。今社会教育センターでフリースペースのような活動をしているが、子どもは年齢も性も言葉のある子も無い子も一緒に遊んでいる。時には泣かしたりなかされたりもするが、この世の楽園かと思わせるような雰囲気になることもある。大人にできないことは無いではないかと思う。友達とはじめるつもりだ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )