やっぱりゲームやテレビに偏るのは心配

子供たちが、余暇時間をゲームやテレビで過ごすことが多いようだが、かねがね心配してきたが、最近その心配がさらに大きくなってきた。もちろん、全面的に否定するものではない。あくまでも、全生活時間の中でそれが占める時間と中身のバランスが問題なのである。私達も子供のころ、マンガを隠れて読みふけったものだ。でも生活全体の割合の分母になる3間(自由な時間、空間、仲間)が今とは桁違いに大きかった。周りの子供や大人も同じようだった。ゲームやテレビはその箱の中では癖になるぐらい魅力はあるが、学習と言う観点から見ると、人の全体認識を刺激するものではなく、ごく限られた部分を切り取った、単純化と言う以上に箱やゲーム機に収めるために、あれこれカットされた特殊ないびつな情報である。全体認識を培うベースがしっかりしていれば、それなりに、遊びや情報収集の方法としてプラスの意味を持つが、そうでなければ、箱から出される情報に左右されることになる。繰り返すことによりその学習は強化される。しかも、テレビにしろゲームにしろ刺激的に感覚に刷り込もうと工夫されているものが多い。神経的には箱の中の刺激であっても脳の中では間違いなく一つの回路が作られる。本人の意識や意図とは関係なく回路は作られると言ってもいい。学習理論の元になる公式は   反応(行動)=刺激×環境でる。(レビン)さらにその理論を発展させた学者に「どんな注文でもそれにあった子供が作れます。」と言わしめた。(行動心理学者 米 ワトソン)勿論そんな単純なものではないが、原理的にそういう公式があることも事実である。今日心配なのは、この情報の状況が子供だけでなく、大人もふくめ、全体的に通念と言うか常識になっていることである。むしろこれから外れると変人か時代遅れの感を呈し、個々人はこれに遅れまいとがんばる。人が環境と刺激の習慣の集合体であることは、カラオケの選曲にでる。習慣の集合体(個人)はそれを意識的に変えることすら困難にすらなる。己を見て全くそうだと思う。カラオケの選曲ぐらいで済めば罪はないが、社会的判断や、実際の行動にでてしまうから困る。特に大人は日々忙しく、部分的情報を全体認識に繋げる時間などないのが普通である。こうして出来た認識を自分の個性と感じたり、自分の主張だと思い込んでしまう。学生時代『人間疎外』がよく話題になった。私も社会にとり込まれるのがいやで卒業を1年延ばした。相変わらず今も全体認識を失いたくないと思いつつ、テレビのチャンネルを回してる。   アー気をつけよっと。
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