世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
「今」の大切さ
人が何かをしようとするとき、大切なの「今」がどうかに根っこが据わっているかどうかではないだろうか。
革新系の論理に『歴史の真実を知ることが、未来を開く力になる』式のものをよくみる。確かに、歴史から学ぶものは多い。
今、国全体が揺れてる年金問題の責任をさかのぼって云々する論調が政府のリーダーや与党の方からよく聞く。
確かに責任の経緯を知ることは問題解決上大切である。
しかしどの場合も、現在どうか?に根っこがあってのこと。保守も革新もとかく、今現在から目をそらし、語るのは共通した傾向のようだ。
立場はどうあれ、「今」から目をそらすのは腰砕けに見える。権力者やインテリによく見られる傾向ではないだろうか。
逃げとシェルターを準備して話す。
『今、私は思う』の論理と論調がほしい。
欲張りだから?
今日のような社会の乱れを、人の「欲」のせいにする論を時々見る。確かに強者への憧れなのか多くの人がお金や権力、風聞や見かけを競うのを見ると、幸福を求める社会とは少しずれた社会になっているだろうし、それらが人が持っている欲望や本能のせいというのを聞く。しかし本能(ここでは欲も含め)丸出しだからだろうか。仏教も欲を苦しみの根源としているし、キリスト教も、欲を嫌い清貧を尊ぶところがある。本能や欲ってそんなにいけないものだろうか?今日の問題はそれが肥大化した結果だろうか?宗教などと言葉の使い方が少し違うかもしれないが、私はそうは思わない。本能や欲は神が与え、法にもあった、大切な自然の法則だろうと思う。問題は人が勝手に作った社会的な価値観や意識で、欲や本能のバランスを崩した結果ではないかと思う。どこが違うか?前者は個人に忍耐を求め後者は歪んだ社会の是正を求める。社会は個人によって構成されてるからどっちかはまぎわらしい。唯現在は前者のスタイルで前のめりになっているかんじだ。たとえ個人に求めるとしても、唯我慢を求めるのではなく、出口の方に目をやることを求めた方がいい。出口はだれもが内部に持っている自然への感性ではないだろうか。出口は自分の中にあるのに、取り違え他の人為に求めたから今日に至ったともいえなくもない。