「今」の大切さ

人が何かをしようとするとき、大切なの「今」がどうかに根っこが据わっているかどうかではないだろうか。

  革新系の論理に『歴史の真実を知ることが、未来を開く力になる』式のものをよくみる。確かに、歴史から学ぶものは多い。
 
  今、国全体が揺れてる年金問題の責任をさかのぼって云々する論調が政府のリーダーや与党の方からよく聞く。
確かに責任の経緯を知ることは問題解決上大切である。

 しかしどの場合も、現在どうか?に根っこがあってのこと。保守も革新もとかく、今現在から目をそらし、語るのは共通した傾向のようだ。
 立場はどうあれ、「今」から目をそらすのは腰砕けに見える。権力者やインテリによく見られる傾向ではないだろうか。
   逃げとシェルターを準備して話す。

『今、私は思う』の論理と論調がほしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

欲張りだから?

今日のような社会の乱れを、人の「欲」のせいにする論を時々見る。確かに強者への憧れなのか多くの人がお金や権力、風聞や見かけを競うのを見ると、幸福を求める社会とは少しずれた社会になっているだろうし、それらが人が持っている欲望や本能のせいというのを聞く。しかし本能(ここでは欲も含め)丸出しだからだろうか。仏教も欲を苦しみの根源としているし、キリスト教も、欲を嫌い清貧を尊ぶところがある。本能や欲ってそんなにいけないものだろうか?今日の問題はそれが肥大化した結果だろうか?宗教などと言葉の使い方が少し違うかもしれないが、私はそうは思わない。本能や欲は神が与え、法にもあった、大切な自然の法則だろうと思う。問題は人が勝手に作った社会的な価値観や意識で、欲や本能のバランスを崩した結果ではないかと思う。どこが違うか?前者は個人に忍耐を求め後者は歪んだ社会の是正を求める。社会は個人によって構成されてるからどっちかはまぎわらしい。唯現在は前者のスタイルで前のめりになっているかんじだ。たとえ個人に求めるとしても、唯我慢を求めるのではなく、出口の方に目をやることを求めた方がいい。出口はだれもが内部に持っている自然への感性ではないだろうか。出口は自分の中にあるのに、取り違え他の人為に求めたから今日に至ったともいえなくもない。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

日本無責任国家か?

国の管理監督・指導の最高責任者が直轄機関の大不祥事に責任をとるでもなく、責任の言葉を曖昧にし、責任を他になすりつけるがごとき言動が続く。年金問題で最高の責任者が社会保険庁(職員)をガン呼ばわりしたことが朝刊に出ていた。病気をほうってきてそれを受けついだ最高の管理責任者が言うことか。(政府与党も同じような立場だし、政治の責任で言えば野党も国民も一方的に他を攻めたり偉そうに言えるはずがない。そのことが無責任) 口荒く責任を追求する野党やメディアの調子に乗った様子を見ると、責任者が言うように『責任の共有は』当然で、与野党関係なく政治の責任で処理してほしい。しかしそれは、結果責任を明確にした上でのことである。事の至った原因や事後処理の責任はあるが、今(現在)の責任の第1義的な結果責任を明確にした上での話である。トップの責任感のズレが社会に与える影響は計り知れない。これは単に参議院選挙どころではない。社会全体への空気のようなもので、社会が契約の責任で成り立っている以上、社会の成立・存亡に関わる極めて大事なことである。ここにいたって、社会保険庁の長官が駅頭でビラマキをしている。過去の担当大臣の責任云々を現在の最高責任者がおっぴらに口にし、それを責任与党が全国にビラをまく。責任与党の会合で当時の担当大臣に、退職金の一部返納を口にしながら、その場で同じ口から「心配は要らない。党で持つから」(朝日)の挨拶が交わされる。これらの空気を見ると、政府管轄の各省庁の役人を管理監督し指示命令している政府やそれを支える政党の空気が知れる。それを追求する野党やメディアも調子に乗って浮き足立っている。そういう社会を育て支えてきたわれわれ国民。私もその中にいるし他人事ではない。今は厚労省に目が吸い寄せられているが、最近、メディアを賑わしているだけでも、国土省、農林省、文科省、公安庁、警察、防衛庁ほとんどきりが無い。 要するに霞ヶ関も永田町も同じ町内会のようなもの。 ビルの建物やそこから出てくる人たちを普通の人には区別出来ない。政治家のからんだ官製談合、コムスンやNOBA、原発から銀行、保険会社これもきりがない。テレビカメラの前で揃って頭を下げるのはもう見飽きた。ただ子供とお月さんは毎日この様子をまっすぐ見ている。ただで済むはずがない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )