抽象的言葉に気をつけよう

若い人の言葉が乱れてるとよく言われる。
確かに私などの老人には?と思うことも少なくない。社会や人間の変化に伴い、言葉や表現方法が変わるのは自然ではある。ただ言葉は伝達の道具だから、出す方と受け取る方に一定の共通した概念がないと伝達は意味を成さない。
 
「構造改革、憲法改正、憲法改悪、美しいい国づくり、少子高齢化、過疎化現象、家庭崩壊、学級崩壊、発展・発達した~」等など目にするたびにどこか違和感を感じる言葉だ。
 例えば「~改革」は政策として教育・政治・行政・経済などずいぶん昔からよく使われた。改革だから間違いなく「良くする」と言う意味だが、その結果が不安に満ち希望を失った今日の現実である。
 一体「改革」の意味はなんだったのだろうか?改正や改悪も同様だ。

 少子高齢化のように~化や~崩壊言われるものも自然現象的な表現で、実際人為的な原因や背景を探ることが曖昧になっている物が多い。
 発展・発達した~のように,自動詞として使われることが多くなっているが、人為的な意味合いが薄くなり、否定的な現象の責任が曖昧になっていることも多い。
 これらの否定の仕様のない全てを包む表現であると同時に逆になんの意味もなさないことばが大手を振っているようだ。
 これらの言葉使いは、政治・経済・学術的な専門分野、メディア始めなど我々の日常会話にまで至っている。
実態のはっきりしない無責任な言葉によって既に我々は動き、動かされていると言ってもいい。
 抽象的で主体のはっきりしない言葉遣いには気をつけたい。出来るだけ具体的な内容と主体者(主語)をはっきりさせたいと思う。
 以前から政治などに登場するキャッチフレーズに違和感を覚えていたが、年寄りの僻みかと思っていたら、同じように感じる人はいるものだ。
ドイツ人のベルクゼンという言語学者が「プラスチック・ワード」と言う本で、同じようなことが述べられていた。ほうとしたような、心配が増したような変な感じだ。
 それはともかく、ジャーナリズム関係の人には1度読んでほしい本だ。
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