すずめはまだ来ない

(淋しいが)どうしてもすずめが来ない。猫に襲われるのを避けている。
 すずめは身の安全とえさの優先順を絶対間違えない。今のところ間違えるすずめは一羽もいない。
 人間も本来はすずめと同じだろうとは思うが、現実は優先順位が逆になっているようだ。
 月から地球を見ていると、誰でも100人が100人、人間が自らの安全を省みず足元を掘り崩していることに気が付くはずだ。
 昨日近所の考古学を学んでいる大学生とそんな話をすると。「人間だから欲を離れては
生きられない。仕方ないよ。」と何のためらいもなく言う。自分の年のせいか?と思ったり、その学生は分っているのかなー?と思ったりした。彼は考古学で何を学ぶのだろう?一晩明けても、やっぱりすずめの方が我々人間より、考古学をやると言う学生より賢いと思う。

我々は知らぬ間に、本末転倒し、価値観の逆転したへんてこな空間を(普通として)生きているのではないだろうか?

状況についていけない人間と月からはそう見えるはずだ。

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開拓と開発

「少年よ!大志を抱け」は郷土北海道の開拓者精神の言葉。
「ディベロッパー」は土地や家を売買し、時には辺鄙だった田舎に突如町を出現させる。
「開拓」と「開発」の違いは何だろう?
 両親の親たちは明治時代「内地」から北海道に移り、開拓・開墾し農業を営んだ。あれには「開発」は似合わない。
 いつの頃からか、「北海道開発局?」が政府機関として設置された。
明治以降、北海道の経済は成長し人口も増えた。今は夕張市に象徴されるように、経済成長はともかく、街はシャッター街が増え、田畑は荒れ、若者は去り人口は減少する。
 開拓が似合う時代と、開発の行き着く先との違いではないか。
 これが日本中、世界中が「経済発展」の名で、開発したらどうなるだろうか?
ともかく、明らかに方向の異なるものを【開拓】と【開発】の1字違いで区別しているが、ややこしい表現だ。
 さらに「ディベロッパー」と横文字で格好良くなると、+と-の区別がますます難しくなる。
 文句のつけようのない格好いい言葉やシャレた言葉【プラスチックワード】にはよっぽど気をつけないと大変なことになる。
 「巧言令色少ないかな仁」は単に、個人の人格の域を超え、「社会支配の道具」として見なくては間に合わない時代になっているようだ。
 それにしても多くの店頭にハデハデな商品が並ぶのは何故だろう?どこもかしこも、本屋さんまでそうなってる。
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子供時代

先日、高校のクラス会があった。30人ぐらい集まったが、田舎の学校なので、幼馴染が一緒に小中高と進学した。その中に小学校1年生のとき(黄色組み)同じクラスの子が5人いた。当時は恥ずかしくて言葉も掛けられなかった女の子(今は66のおばあちゃん)だって見境なく抱きつきたくなるような衝動すら走った。何からかにまで分かり合っているような気がした。この5人は60年ぶりだ。
今、戦後日本の作文教育では有名な田宮輝夫先生の本を読んでいる。彼は17~8歳で代用教員で今私の住んでいる近所の学校で教師として出発した。子供の作文に添えられた子供の作文より長いような先生の1文は、子供への想像力が素晴らしくとても真似できるものではない。出来れば1年間でも一緒に仕事がしたかったと思う。
 彼は教師の免許を持っていないだけでなく、個人的にも貧しい農家に育ち12人兄弟でご飯もろくに食べられなかったようだ。「田宮」の姓も養子先のものらしい。
 多分、想像力の源はここらと関係あるだろう。ないない尽くしに見えてたあの時代でも、肝心の自然はたっぷり吸収したに違いない。
子供時代の思い出は単に「思い出」ではなく、その後の仕事や勉強や暮らしなど全ての土台と言うかよって立つ(足の裏)のように、今に続いているように思う。足の裏が自然を吸収した。
 そう考えると、何でもあるように見えて、肝心の自然を殆ど吸収できなくなった現代の子供たちの(足の裏)はだいじょうぶかな?

今後、田宮先生みたいな先生がでてくる可能性があるだろうか?とすら思う。

教育再生会議の先生方(委員)の見ている先は全く逆だ。
 それより、それより、会議の先生方は足の裏から自然を吸収できるような立場にいらっしゃっただろうか?もしかしたら足の裏の話が通じない人ばかりかもしれない。

免許はなくても、それだけは必要だ。

幼馴染はみんなそこだけはしっかり確かめ合った感じだ。

本当に幸せな時間だった。

 

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