ついうっかりの研究

(ついうっかり)ば失敗した時に良く使う。
 しかし、それは俗説?
 生き物は良い状態のもとでは必ず自発的で、積極的な行動が出てくる。
 (探索行動)の言葉もある。子育てや教育、とりわけ自閉症や発達障害と言われる子どもとの付き合いではこの視点や感覚をなくしては殆どうまくいかない。
 しかしこれは子どのことだけではない。どんな成人も、どんな学者や専門家も、
 自閉症を論ずるお医者さんも、同じだろう。 間違いなく生き物なんだから。
 世間話も、選挙の話も基本は同じ。ついうっかり同士でないと、その人間関係そのものが意味がない。
 だからドジドジを誇りにし、惚れ込んでいる。 赤塚さんも言った。それでいいのだ!


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ミュージカル パートX

今朝、年とったあるドジが市長選挙の応援だと言って最寄の駅頭に立って窪田さんのビラ配りをしていた。 1時間近く立っていて、通行人は100人に一人、全部で4~5枚も受け取っていただろうか?ほとんどわき目も振らず通り過ぎる。 ミュージカル的に見るとそれはどうでもいいことで、あの駅頭のあの空間の意味は何だろう?  通るヒトと、配るヒトの心の距離の何と離れてる事か? よく見ると、配ってるビラの中身ややマイクを持って話してる中身も離れ離れでバラバラである。通行人がバラバラなのは言うまでもない。あの空間で動く全てがバラバラにあってバラバラに動いてる。 何て言うミューザカルだろう?    道行くヒトは、出てきた家のこと、これから行く職場や学校の事で頭が一杯カも知れない。政治に不信感を持っているからかもしれないし、支持している人が違うからかもしれない、単なるいつもの癖になった動きかもしれない。 この朝っぱらから町の事を考えてる余裕など殆ど無い。 そこでドジはどこを見てどう動けばいいか考えて動いた。結局道行くヒトをしっかり見ることだけだと分ったようだ。 すると、頭の中の想像が広がり見た目には動きは変わらないけど、頭の中は配るヒトと通行人が繋がり始めた。 例えば、急いでいるヒトが来ると、ビラまくヒトは黙って早めに1歩下がって道を空ける。 ビラをまくヒトが(大変だね)と気遣って一歩下がると、どうしたの?と脇目で見るヒトも出てくる。何だかダンスのよう。  それはともかく、通行人と駅頭宣伝するヒトの心の距離が遠すぎる。 これは対立する現市長さんの方の駅頭宣伝もそれほどかわらないだろう。何故なら、過去2回の選挙は10パーセント程で大した差はなかったのだから。  問題はどちらの候補者にとっても、住んでいる町のことに振り向く余裕のない圧倒的な市民が住んでいる町だという事である。 本当に町のことを考えるなら、両候補者は勝ち負けを考える前に、どうしたら市民が自分の住んでる町のことに目を向けられるかを考えることだし、選挙運動の基本の基本はそれかもしれない。 これまでの選挙は保守対革新のような構図で選挙が争われてきた。結果今日の社会や地域になった。政治文化はどうなのか? 両者が基本を忘れ、悪い癖をつけて《ついて》いないか?  ほとんど無視されるかのような動きの中で、ただ一人、「おはようございます。」と挨拶された中学生のような女の子がいた。通ったヒトの中でただ一人ユニークな動きだ。ドジは挨拶を交わしてやり過ごした後、見ると遮断機が下りてそこで電車の通過を待っている。急いで駆け寄り、「七生中?通ったヒトの中で1番礼儀正しかったよ。」と持っていたビラを丸めて肩を叩いて言うと、中学生ではなかったようだがにっこり笑顔を返した。かけた言葉が良いかどうかはかどうかは分らないが、最大限の気持ちを伝えたかったのだろう。 立っていた場所に戻って考えた。彼女はランドセルを一方の肩に引っ掛けていたけど、ランドセルなんだから中学生であるはずがない。飛びぬけて背の高い小学生だ。 彼女は珍しく挨拶したけど、ヒトはすれ違った時《町のど真ん中とか場所にもよるが)ビラの受け取りとは別に会釈するぐらいは普通かもしれない。海外旅行や山へ行った時のことを思い出していた。  通行人のあのひたすらうつむき加減に歩く姿は自分の映し鏡に見えてきた。 どうしたらつい脇見?を、どうしたらつい会釈を‥   ドジには現役時代特に自閉症の子供と付き合った頃の事と目の前のことが重なって見えた。  ふと顔を上げると目の前でいつものスズメ達は俯かないで、パタパタぴーぴー跳ね回る。  ミュージカルも良い線行ってるぞ!さー第2幕の準備をしなくちゃ ね!   
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