世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
内側・外側の補足
これまで(俯瞰)と言う言葉で外側から見る大切さを書いてきたつもりだが、上手く表現できないでいる。
「物事を改良・改善する時、視点や立場を変えて、修正するか視点や立場を変えて白紙にし組み直すしかない。」と佐藤文隆さん(宇宙物理学者)のは著書で述べているが具体的で分りやすい。
(歴史的な政権選択)で思うのだが、それだけ重要な選択は比較競争で争うものではないと思う。競争以前にどこにどう走るかの認識が必要ではないか?
さもないと、どうしても従来から抜け出せない。
どこにどう抜けるかを見つけるかが、競争(選挙)以前に問われてる。
これは言われてるマニフェスト以前のレースのルールのようなもの。
それが急務のはず。 どこからも聞こえない。
たとえば、核の脅威、パンでミント、地球の異変、などをどうするかの課題は
選択以前のルールではないのか?
なぜなら人類の生命や安全上、目の前に突きつけられ競ったり勝った負けたという問題ではない。
普通、外側・俯瞰・地文台(天文台の逆)の見方では無いから慣れていない。
まして今日の文明文化のように縦割り細切れのなかで育ち生きている中にあっではなおさらである。
よっぽど練習し慣れないとないと地と図はいつの間にか自分中心になってしまう。
認識や思考方法だから観念的に出来そうだが実際には、水泳や自転車のように
可也練習しないと困難だろうと思う。
練習して自由に地と図を入れ替えられる。
入れ替え自由な空間が本当の視座かもしれない。
視座を拡げる事が、何にもまして求められているように思う。
囲碁はその世界。
「物事を改良・改善する時、視点や立場を変えて、修正するか視点や立場を変えて白紙にし組み直すしかない。」と佐藤文隆さん(宇宙物理学者)のは著書で述べているが具体的で分りやすい。
(歴史的な政権選択)で思うのだが、それだけ重要な選択は比較競争で争うものではないと思う。競争以前にどこにどう走るかの認識が必要ではないか?
さもないと、どうしても従来から抜け出せない。
どこにどう抜けるかを見つけるかが、競争(選挙)以前に問われてる。
これは言われてるマニフェスト以前のレースのルールのようなもの。
それが急務のはず。 どこからも聞こえない。
たとえば、核の脅威、パンでミント、地球の異変、などをどうするかの課題は
選択以前のルールではないのか?
なぜなら人類の生命や安全上、目の前に突きつけられ競ったり勝った負けたという問題ではない。
普通、外側・俯瞰・地文台(天文台の逆)の見方では無いから慣れていない。
まして今日の文明文化のように縦割り細切れのなかで育ち生きている中にあっではなおさらである。
よっぽど練習し慣れないとないと地と図はいつの間にか自分中心になってしまう。
認識や思考方法だから観念的に出来そうだが実際には、水泳や自転車のように
可也練習しないと困難だろうと思う。
練習して自由に地と図を入れ替えられる。
入れ替え自由な空間が本当の視座かもしれない。
視座を拡げる事が、何にもまして求められているように思う。
囲碁はその世界。
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内側と外側
どんな対象や現象も自分のいる側からの見方と、自分のいない反対側から(自分を含めて)の見方がある。
日本の8・30総選挙に向け各政党はもとより各界から談話や見解が報道されている。
この国内的な政権選択は、(形式的には)国の進路を国民が選択するという意味で歴史的と言えなくも無い。
しかし、テレビや新聞で目にするものは、見解の違いこそあれ、全て内側からのものばかりで、外側に立った見解は(今の所)一つも目にしない。
例えば、14日付け朝日新聞は政党の枠を離れた 2人の学者、御厨貴氏と佐々木毅氏・ 著名な両氏の見解を1面を使っ大きく報道していた。
ある意味で立場に拘束されないお二人なのに意味づけの違いはあるものの、何故か外側からの見方や意味づけは全く無い。
要するに政権選択の意味を論じている人たちでさえ対象を内側から見て意味を見出そうとしている。
問題は、対象や現象が外との関係もあって生じている時に、内側に立ってのみ論じている。
第三者的な立場の学者さえもが内側に篭って声を上げリードしている。
G8の議題、温暖化対策・世界経済・核軍縮、今回議題にはならなかったが、この秋にもと危惧されてるパンでミックにしろ、国の内側を視野にした内側の関係変更では解決の道筋は出てこないし、内側の人間は(政権だけでなく)選択のしようがない。
全体的に新たな引き篭もりに入ったかようだ。
政権選択などと言っていられるような状況には無い。
日本の8・30総選挙に向け各政党はもとより各界から談話や見解が報道されている。
この国内的な政権選択は、(形式的には)国の進路を国民が選択するという意味で歴史的と言えなくも無い。
しかし、テレビや新聞で目にするものは、見解の違いこそあれ、全て内側からのものばかりで、外側に立った見解は(今の所)一つも目にしない。
例えば、14日付け朝日新聞は政党の枠を離れた 2人の学者、御厨貴氏と佐々木毅氏・ 著名な両氏の見解を1面を使っ大きく報道していた。
ある意味で立場に拘束されないお二人なのに意味づけの違いはあるものの、何故か外側からの見方や意味づけは全く無い。
要するに政権選択の意味を論じている人たちでさえ対象を内側から見て意味を見出そうとしている。
問題は、対象や現象が外との関係もあって生じている時に、内側に立ってのみ論じている。
第三者的な立場の学者さえもが内側に篭って声を上げリードしている。
G8の議題、温暖化対策・世界経済・核軍縮、今回議題にはならなかったが、この秋にもと危惧されてるパンでミックにしろ、国の内側を視野にした内側の関係変更では解決の道筋は出てこないし、内側の人間は(政権だけでなく)選択のしようがない。
全体的に新たな引き篭もりに入ったかようだ。
政権選択などと言っていられるような状況には無い。
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