万能な科学は無い

科学的 言わば合理的か否かを判断の基準にすることが多い。科学は文学や芸術と対比されるほど主観ではない客観的事実を指し示したり、事実であることを証明する道具としても用いられる。「科学的・合理的・論理的」は有効か無効か、 能率の良し悪し等の根拠に使われることもある。
これらによって生み出された公式のようなものは 一定の条件下で成り立ち、条件が異なると成り立たないのだが、公式が一人歩きして
 条件が違っているにも関わらず汎用して用いられることが多い。
  
 学習と学習時間の関係にも言える。子供が一定のものを学習するには時間が必要である。これは(公式) のようなものだが、この公式を使って、子供が一定の時間を使っても学習の結果は皆違う。学習には時間以外の多くの条件があり、条件次第では学習時間の長さは学習を阻害する。

 金融工学を使いお金儲けが出来ると言う公式を国が経済政策として用いても結果は見て分かるように経済は壊れただけである。
 何故なら、経済の部分的な法則を産業を基盤に成り立つ経済への政策とするのだから、経済特に大本の産業が壊れたのは当然である。

 これまで、物事を考える基盤に据える視座を空間的に広げることの大切さを考えてきたが、たとえ科学的真実であっても絶対的なもの無く、条件によって皆異なることを付け加えたい。

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