大局観の無いメディア政治

 午後の国会中継で、予算委員会の集中審議と称して
  某美人議員が国会内でモデルのような写真撮影をしたことを1時間以上も追及しもめていた。
  
 ( 政治家とお金)も未だやっている。

   
  いつまでもエンドレスに大声で相手を罵り合う、集団的な井戸端会議のようだった。
 
   日本の国は他に問題は無いのか?  大局観の無いメディア政治。

    地上を盤にした囲碁は初心者のようだ。 

    
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 我侭

 周りの草木は季節に合わせて色づいているのに、人間は仕事も子育ても思いを優先し次第に自然から離れて困難に向かっているように見える。
( 親孝行したい時には親はなし)と言うが」、親を離れて親の有り難味が分かるのは確か。
 
  人間は我侭な大自然の子供なのかもしれない。 
  
 
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筋違い

 古来、「人間は社会的動物」と言われてきた。
  社会、なかんずく経済社会が変調を来たしてきたら、人間も変調を来たす理屈になる。
 
 社会の諸問題の原因は先ず背景である経済社会に求めるべきだろうが、経済の仕組みを変えるのが難しいと見ると、原因を遡らず、周囲に原因を求め、時には原因を求めず問題の処理に終始する。
 そんな傾向が地球上を覆っていないだろうか。
  全体的に子供の教育上の問題ですら同様に扱われているようだ。
     昨日の米国の心理学者の話も、《別次元》と前置きして遡ろうとはしなかった。
 
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錯覚

 人・物・お金は 国境を越えて産地と市場を求めて移動する。
 50年前は、地方から都市へ、今は、中国やインドへと移動する。
 焼き畑農業のように次々移動し、残るは焼け跡。
 地方は荒廃し、都市は空洞化し、ゴーストタウンも散見。
 中国の利上げで世界は曇り、通貨安競争を否定しながらわれ先へと走る。 
 錯覚から生まれた余裕なのか錯覚そのものなのか‥
 世界に錯覚がなければ、面白くも可笑しくも無い。ドラマもお笑いも、もともとそこにいる誰だって錯覚の産物なんだ。 
 
  
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