感覚を喪失した社会




   人は必要のないものを(やかましい)とか(じゃま 邪魔)と感じると言う。

    最近は学校や子供の声 近所の風鈴の音さえ (うるさい!)と感じる人がいるらしい。
     ここまで来ると個人の文化や感覚の受容の問題と言うより 感覚を喪失した社会病理として社会的な対策が必要ではないのか。

      このこと自身を政治問題として取り上げ気配もない。どう取り戻す?

     
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大きな勘違い空間で




   一人一人が状況判断するところから民主主義は成り立つ とは思うが 色んな意味で 難しいようだ。

    現在は「民主主義の名で…」と建前にしてはいるが 実際は かなり違っている事を自覚しないと 大きな勘違いをしてしまう。
今、私たちは そういう状況下で それを「普通」として生活しているんだろうな…




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気が利かない






これだけ物事が世界規模で動いている時、経済も成長するには 自国が変わるか他国が変わるかしかないのは事の論理。

    サミットで分かるように 他国に期待できないなら自国が経済活動のスタイルを変える他ない。
   
    世界の状況を見てそうすべき時だが それも出来ないようだ。  

他国の変化が誰の目にもどこの国もが はっきり変わって見えるようになるまで、ジリ貧が続くとは思うが 気が利かないと思う。

     いつの間にか 他人の顔色を見て動く癖を忘れているんだろう。  

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財政的確立の必要性



             

     広い意味で 経済社会における教育活動は 経済活動の一環なのだが 別次元として扱い 結果そのリスクも見られる。

     特に日本では伝統的に「教育は聖職」として切り離す傾向が強い。かつては地域や企業が教育の経済的負担をカバーしてきたが 

今日その余力は乏しい。  当然教育の質の低下を招き、その結果今日の経済の停滞や縮小を招いているとも言える。


         企業や公は 立場や性格上 分かっていても方向転換はするのは難しい。結局は個人や法人などの声掛けや運動に期待するほかない。
 
      各分野においてはこれらの前後関係を自覚し 方向転換の進め方の基本に財政的確立を据え、その具体的な計画と試行が求められているようだ。 
     
        
 
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自然との対応力





人は人を中心にした経済社会を作り エリートは「知識」を中心とした情報処理能力は高いのだが 逆に自然や全体との対話は経験不足でを苦手にしているのも無理からぬこと。外的な自然や全体とのコミュニケーションは内なる感覚や意味付けとも相通じる。

   しかし、人がどう自然矢全体を認識しお付き合いしようと自然や全体があっての人間であることに変わりない。


    今の経済社会が行き詰まるのは自然の理で 基本に立ち返るためには改めて自然から学び直し 内・外の自然と会話し対応力を取り戻す以外にないだろうと考えている。

学力テストをする前に自然との会話や対応力検査をした方が良い。

入学試験でも入社試験でも評価の基準を変えないと 行き詰まりは打開しないのに相変わらずどころか「早期教育」と称して拍車すらかけてすらいる。

    経済も教育も逆方向に進んでいては 出口は遠のくばかり。
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