世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
問題は教育に遡る
現状認識を疎かにしているせいか 政治的仮説実験の多くが成功していないようだ。
仮説の相当するスローガン的な政策そのものが 的を外していることが多い。
ありのままを認識していれば こんな状態にはならなかっただろう。
問題は教育に遡る。
争いを好む人
親日 反日 等 親~ 反~の言葉が用いられるが、その根拠は曖昧で主観的ではないだろうか。
少なくても反~で良い気持ちを持ち納得できる人はいないだろう。
そんな言葉が 政治家や専門家 ジャーナリストやマスコミで やたら使われているようだが
どうしたら反~ではなく仲よく協力体制が組めるかが社会的には 将来の希望に繋がる意味を持つ。
過去の組に分かれて争っても 将来的には あまり良い事は無い。
自らを貶めないために
暮らしや地域の環境 教育 情報など市民の身近な生活に関係する事柄を 市民が話題にしたがらない向きを感じる。
仮にそんな雰囲気があるとすれば 市民は自分を語ることは 難しく自らを知ることが出来ない。
結局 社会的には 物言わぬ隷属した数値化された小市民として構成される。
これは 仮説による風景だが 実感しなくもない。
要するに 子どもも大人も ありのまま を語り合い 確認することなんだ。
論理的には 身近な所に5~60年先の希望を見出すことは難しが その探索は面白い。
早朝散歩時の見知らぬ人との挨拶は そうかもしれない。
見えないもんでもあるんだよ
5~60年先の光を 今 見出すのは難しい。
しかし、「見えないもんでも あるんだよ」である。
今の仕様では持続不可能なのだから 新しく新調せざるを得ない。
準備が遅いだけ。「見えないもんでも あるんだよ」
ショーウインドーの幸福
市民=消費者 だろうか?
あちこちに 商業主義に染められたような現代社会の矛盾が露呈している。
本来 市民は 幸せな暮らし 自然な幸福を望んでいたのではないだろうか。
何時しか 豊かさや便利さ 絵のように美しくショーウインドーに並べ 買ってもらいたくなるような幸福を求めていないだろうか? 恋愛も結婚も衣食住の生活も消耗財になってはいないか? とつい思ってしまった。
それはともかく 世界観と同時に 幸福って 何? を考える時かもしれない。