世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
教育懇談会構想
今私がやり残している感じの物のなかに
子ども達に現在の地球の様子を知らせ、心の準備をしてもらうことと、子どもや教育を語る場の(教育懇談会)設定がある。後者のイメージを今描いている。
現役時代は学級の保護者会とは別に教育懇談を学校や地域で定期的にやっていた。
あるときは全市に呼びかけたこともあった。今描いてるのはそれとはイメージ的にかなり違っている。
参加者全員が対等で啓蒙するような意図を持た無い。参加者全員が(学び)の主体者として他者に語り他者の話を聞き一人ひとりが自分の中ですり合わせ、自らの見地を広げる。言い換えると子どもや教育のことを教育的な関係ですり合わせるというものだ。以前は講師を準備したりして参加者にためになる話を提供する意味合いがかなりあったし、時には教育行政を批判する場になったりもした。
これは仮に主張が正しいとしても教育的な関係は成立していない。(当時は今ほど意識していなかった)今これだけ教育的関係(信頼関係のことだがカウンセリング
で言う(ラポート)のような、人間観を含む哲学的な意味を持つ。)が地域はもとより学校だけでなく家庭からも社会全体に剥げ落ちたような現在、教育を本来の教育的な手法で論ずるそういう場の設定が求められているのではないだろうか。
同じような仲間が集まって他を批判するのではなく、立場や考えの全く異なる人たちが互いに意見の異なる人たちを学びの対象として向き合う。ちゅおっとおっげさだが、教育基本法の改正を主張する人と反対する人が、自分の学びの対象として同席し学びあう。学校の学びも本来そうではないだろうか。10人が10人書いた絵は異なる。その絵は上手いか下手だけではないだろう。自分の経験ではどんな障害を持った子どもも、自分には真似のできない価値観や感性を備えていた.それにはたった一人の例外も無かった。当然大人もそうではないか。
理想論になるかもしれないが、立場や意見の異なる人たちが大きな声で他を圧するような場ではなく、ジャズやオーケストラのようなすばらしい空間が生まれはしないか。今社会教育センターでフリースペースのような活動をしているが、子どもは年齢も性も言葉のある子も無い子も一緒に遊んでいる。時には泣かしたりなかされたりもするが、この世の楽園かと思わせるような雰囲気になることもある。大人にできないことは無いではないかと思う。友達とはじめるつもりだ。
子ども達に現在の地球の様子を知らせ、心の準備をしてもらうことと、子どもや教育を語る場の(教育懇談会)設定がある。後者のイメージを今描いている。
現役時代は学級の保護者会とは別に教育懇談を学校や地域で定期的にやっていた。
あるときは全市に呼びかけたこともあった。今描いてるのはそれとはイメージ的にかなり違っている。
参加者全員が対等で啓蒙するような意図を持た無い。参加者全員が(学び)の主体者として他者に語り他者の話を聞き一人ひとりが自分の中ですり合わせ、自らの見地を広げる。言い換えると子どもや教育のことを教育的な関係ですり合わせるというものだ。以前は講師を準備したりして参加者にためになる話を提供する意味合いがかなりあったし、時には教育行政を批判する場になったりもした。
これは仮に主張が正しいとしても教育的な関係は成立していない。(当時は今ほど意識していなかった)今これだけ教育的関係(信頼関係のことだがカウンセリング
で言う(ラポート)のような、人間観を含む哲学的な意味を持つ。)が地域はもとより学校だけでなく家庭からも社会全体に剥げ落ちたような現在、教育を本来の教育的な手法で論ずるそういう場の設定が求められているのではないだろうか。
同じような仲間が集まって他を批判するのではなく、立場や考えの全く異なる人たちが互いに意見の異なる人たちを学びの対象として向き合う。ちゅおっとおっげさだが、教育基本法の改正を主張する人と反対する人が、自分の学びの対象として同席し学びあう。学校の学びも本来そうではないだろうか。10人が10人書いた絵は異なる。その絵は上手いか下手だけではないだろう。自分の経験ではどんな障害を持った子どもも、自分には真似のできない価値観や感性を備えていた.それにはたった一人の例外も無かった。当然大人もそうではないか。
理想論になるかもしれないが、立場や意見の異なる人たちが大きな声で他を圧するような場ではなく、ジャズやオーケストラのようなすばらしい空間が生まれはしないか。今社会教育センターでフリースペースのような活動をしているが、子どもは年齢も性も言葉のある子も無い子も一緒に遊んでいる。時には泣かしたりなかされたりもするが、この世の楽園かと思わせるような雰囲気になることもある。大人にできないことは無いではないかと思う。友達とはじめるつもりだ。
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人の話を聞く難しさ
とかくおしゃべりな自分だが,他人には話を聞くことの大切さをよく説く。
昨日子育てに悩んでいるある母親にそれ説いたらその奥さん「疲れるんえすよね。ところで先生の奥さんはどうですか?」と逆に問われた。私はとっさに「女房も、私も他人の話をよく聞けないんです。だから一生の問題です」と答えた。
かんがえてみると、黙って聞いていて心の中まで分ってくれるのは神様か仏様かもしれない。所詮人間は程度の違いがあるだけなのだろう。そういうとそのお母さんほうとしたような顔になった。またもやお仕着せがましく解いた自分にまたもやちょっとだけどいやらしさを感じた。
昨日子育てに悩んでいるある母親にそれ説いたらその奥さん「疲れるんえすよね。ところで先生の奥さんはどうですか?」と逆に問われた。私はとっさに「女房も、私も他人の話をよく聞けないんです。だから一生の問題です」と答えた。
かんがえてみると、黙って聞いていて心の中まで分ってくれるのは神様か仏様かもしれない。所詮人間は程度の違いがあるだけなのだろう。そういうとそのお母さんほうとしたような顔になった。またもやお仕着せがましく解いた自分にまたもやちょっとだけどいやらしさを感じた。
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指導者ができることとできないこと
教師と子どもの間で教師は子どもにどんなことでも指導し教えることができるだろうか?限界はあるのか無いのかを考えて見たい。
どの花が美しいか。何が美味しいか?君の好きな遊び?あなたの好きな人?
もっと言えば君の好きな勉強。君の好きな勉強のやり方。これらが教えられないことは誰の目にもはっきりしている。
さらに、野球選手がサッカーを教える。南国育ちでスキーの経験の無い人がスキーの乗り方を教える。すし屋の職人が大工の仕方を教える。中学の図工の先生が音楽を教える。これらも一般的には無理なことが分る。同じ種目でも投手出身の監督はバッターの技術は専門のコーチに任す。
ここでは指導者と指導者されるものとの基本的な関係を見た。学校教育でこれを当てはめると、直接子どもを指導する教師はそれなりの専門的な知識と技術が無くてては指導は成り立たない。教師は専門的な技術を持った専門職になる。
病院で言えば経営者である理事長は患者の診断や処方に関与しないし、してはいけない。脳外科が専門の院長先生は精神科の診断や治療は普通は控える。
学校はどうだろう?教師の上司に当たる学校長は学校経営の責任者としての仕事が職務であるが、責任は拡大解釈され、指導上の責任を負わされ、それが職務と任じている人も多い。小学校では障害児教育の経験の無い学校長が、その指導案をチェックしたり、体育専門の学校長が音楽の先生の指導に当たる。その校長は行政の上司の指示に従う。地方行政万派中央に。教育行政上の上司の部下への聞き取りは一般企業がする市場調査のような客観性は殆ど無い。そこが一般企業と異なる。しかも教育行政機構になると殆どの職員は教職の経験が無いばかりか免許証も専門の勉強すらしていない。子どもに直接関わる専門的な職人的な感覚からいうと、子どもの指導から1ヶ月もすると勘は鈍ってしまうにもかかわらずだ。野球選手や相撲取りが1ヶ月練習していないのと同じ。学校長にしても教室の現役からは離れると勘と技術の低下は免れない。
子どもへの対応や指導はそれほど厳しいのだが、現実は行政間もも校内も上意下達。
ここでちょっとおのろけになるが、私は妻《やっぱり教師だった》にプロポーズする時「僕は教頭や校長にはならないよ。文部大臣なら分らないけど」と言ったら彼女「そんなの目指す人とは結婚しないよ」と言うことで目出度くゴール。
要するに、音楽の演奏家は指揮者やプロダクションの経営者を目指さない。絵書きにしろ役者にしろ同じだ。学校は回転寿司の経営者《すし職人でないことが多い》が店員にすしの握り方を指導しているようなものだ。そんなことをすればやばくて食べられたものではないから普通は分際をわきまえそんなバカなことはやらない。先生方はそれを強いられている。だから逃げ出す子ども(不登校夜学校不適応児)や悩んでる先生は見事に多い。日本は子どもに何をどう教えるかは教師さえ通り越し《お上》が決める。教育史をかなりさかのぼるこのやり方は今まで訪ねた国々の中でも最高だった。近々似たような感じの隣の韓国へ行って比べてみたいと思っている。
どの花が美しいか。何が美味しいか?君の好きな遊び?あなたの好きな人?
もっと言えば君の好きな勉強。君の好きな勉強のやり方。これらが教えられないことは誰の目にもはっきりしている。
さらに、野球選手がサッカーを教える。南国育ちでスキーの経験の無い人がスキーの乗り方を教える。すし屋の職人が大工の仕方を教える。中学の図工の先生が音楽を教える。これらも一般的には無理なことが分る。同じ種目でも投手出身の監督はバッターの技術は専門のコーチに任す。
ここでは指導者と指導者されるものとの基本的な関係を見た。学校教育でこれを当てはめると、直接子どもを指導する教師はそれなりの専門的な知識と技術が無くてては指導は成り立たない。教師は専門的な技術を持った専門職になる。
病院で言えば経営者である理事長は患者の診断や処方に関与しないし、してはいけない。脳外科が専門の院長先生は精神科の診断や治療は普通は控える。
学校はどうだろう?教師の上司に当たる学校長は学校経営の責任者としての仕事が職務であるが、責任は拡大解釈され、指導上の責任を負わされ、それが職務と任じている人も多い。小学校では障害児教育の経験の無い学校長が、その指導案をチェックしたり、体育専門の学校長が音楽の先生の指導に当たる。その校長は行政の上司の指示に従う。地方行政万派中央に。教育行政上の上司の部下への聞き取りは一般企業がする市場調査のような客観性は殆ど無い。そこが一般企業と異なる。しかも教育行政機構になると殆どの職員は教職の経験が無いばかりか免許証も専門の勉強すらしていない。子どもに直接関わる専門的な職人的な感覚からいうと、子どもの指導から1ヶ月もすると勘は鈍ってしまうにもかかわらずだ。野球選手や相撲取りが1ヶ月練習していないのと同じ。学校長にしても教室の現役からは離れると勘と技術の低下は免れない。
子どもへの対応や指導はそれほど厳しいのだが、現実は行政間もも校内も上意下達。
ここでちょっとおのろけになるが、私は妻《やっぱり教師だった》にプロポーズする時「僕は教頭や校長にはならないよ。文部大臣なら分らないけど」と言ったら彼女「そんなの目指す人とは結婚しないよ」と言うことで目出度くゴール。
要するに、音楽の演奏家は指揮者やプロダクションの経営者を目指さない。絵書きにしろ役者にしろ同じだ。学校は回転寿司の経営者《すし職人でないことが多い》が店員にすしの握り方を指導しているようなものだ。そんなことをすればやばくて食べられたものではないから普通は分際をわきまえそんなバカなことはやらない。先生方はそれを強いられている。だから逃げ出す子ども(不登校夜学校不適応児)や悩んでる先生は見事に多い。日本は子どもに何をどう教えるかは教師さえ通り越し《お上》が決める。教育史をかなりさかのぼるこのやり方は今まで訪ねた国々の中でも最高だった。近々似たような感じの隣の韓国へ行って比べてみたいと思っている。
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教育受難の仕組み
先日このブログで子どもの発達のきっかけを自分の経験から①探索行動《学習本能》②子どもの話に耳を傾ける《信頼関係》の2点を挙げた。
自分はこのことを知識として知ったのは教師になってからかなり時間がかかったし知識として分っても、それが技術として使えるにはさらにかなりの時間がかかり今だって満足できるものではない。言いたいのは教育と言う営みは知識をでさらに自分の感覚にまで高めないと本当の意味で子どもとかかわり発達させるのは難しい。逆に発達の芽を摘んでしまう。実際に「教育」と言う言葉で色々やられているが、教育とかけ離れた結果はあまりにも多いのは衆知の事実だ。
教育の仕組みから考えって見たい。一般的には公立はもとよりどんな学校も、教師と子どもはもとより、学校長と一般の先生、教育行政の役人と学校長
教育行政も中央と地方、全て指導する立場と指導される立場が歴然としているのが今日の現実だろう。少々理屈っぽくなるが、果たして子どもの立場から見て発達のきっかけを知りその技術を持っているのは誰達だろうか?ちょっとしなくても子どもの発達もを知らない人たちによって子どもの指導方針が立てられていると考えるのは普通ではないか。その乖離を埋めているのが権威や権力関係だろう。
他のことはともかく教育に関しては、子どもを知らなくては教育と言う名を使っても教育にはならない。権力と名誉で自動車の運転免許や囲碁名誉○段をもらっても実際には運転できず、碁にならないのと同じようなもの。教育をどうのこうのと他に指導する上に立つ人が人たちが1年生の1時間の授業でもいい、軽い自閉症を持つ子どもと1時間でも向き合うような試みをやってほしい。教育への信頼は黙っていても高まるはずだ。昔から教師は範を示すものと言うが殆ど見たことが無い。是非、やってみせてほしい。そんな声が上がってもおかしくないはずだが。
今日ようにこの発達を無視した仕組みが強まる限り子どもの発達の芽は奪われ受難も増大することになる。関心のある人はその辺をよくよく見てほしい。
人の問題もあるがその原因になる仕組みの問題はより大きい。
自分はこのことを知識として知ったのは教師になってからかなり時間がかかったし知識として分っても、それが技術として使えるにはさらにかなりの時間がかかり今だって満足できるものではない。言いたいのは教育と言う営みは知識をでさらに自分の感覚にまで高めないと本当の意味で子どもとかかわり発達させるのは難しい。逆に発達の芽を摘んでしまう。実際に「教育」と言う言葉で色々やられているが、教育とかけ離れた結果はあまりにも多いのは衆知の事実だ。
教育の仕組みから考えって見たい。一般的には公立はもとよりどんな学校も、教師と子どもはもとより、学校長と一般の先生、教育行政の役人と学校長
教育行政も中央と地方、全て指導する立場と指導される立場が歴然としているのが今日の現実だろう。少々理屈っぽくなるが、果たして子どもの立場から見て発達のきっかけを知りその技術を持っているのは誰達だろうか?ちょっとしなくても子どもの発達もを知らない人たちによって子どもの指導方針が立てられていると考えるのは普通ではないか。その乖離を埋めているのが権威や権力関係だろう。
他のことはともかく教育に関しては、子どもを知らなくては教育と言う名を使っても教育にはならない。権力と名誉で自動車の運転免許や囲碁名誉○段をもらっても実際には運転できず、碁にならないのと同じようなもの。教育をどうのこうのと他に指導する上に立つ人が人たちが1年生の1時間の授業でもいい、軽い自閉症を持つ子どもと1時間でも向き合うような試みをやってほしい。教育への信頼は黙っていても高まるはずだ。昔から教師は範を示すものと言うが殆ど見たことが無い。是非、やってみせてほしい。そんな声が上がってもおかしくないはずだが。
今日ようにこの発達を無視した仕組みが強まる限り子どもの発達の芽は奪われ受難も増大することになる。関心のある人はその辺をよくよく見てほしい。
人の問題もあるがその原因になる仕組みの問題はより大きい。
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社会教育センターの先生達
この夏休み市の社会教育センターの仕事のお手伝いを少しだけどやっている。
そこの先生達と一緒に子どもの主体的な動きを尊重しながら子どもと一緒に活動している。そこにはベテランの先生もいれば浪人中の学生や大学生、教員志望の人など私意外は多くが教師経験の無い若い人たちだ。面白いのは子ども達はその若い人たちにまつわりつき追っかけている。私は悔しい思いも無いではないがこの年になれば諦めもつく。私は常ずね、「いい先生の見分け方は一目で分る。子どもに追いかけられる先生は間違いなくいい先生です」と言ってきた。私も一つの理想として努力してきた。
子どもが求めているのは理屈ではない人間的な自分に通ずる感性なんです。
私は子どもとの教育の実践は今回のお手伝いでお終いにしようと思う。
年齢で致し方ないが、実はそれで説明できないところもあるのです。
私は長いこと公立学校でまあまあの教師をやってきたつもりですが、センターの先生方を見ているとベテランの先生も感性で若い人に負けていないのです。何故私(我々)と違うのか?
原因はいろいろあるとは思いますが、学校に勤務していた頃よく思ったのは、
新卒で来たばかりの先生はピカピカしているのに、2~3年もしないうちにくすんでさびついてくる感じになる先生が多いんです。特に最近はその傾向が強い。なぜか?
新任が受ける研修の成果?なのです。研修を受け服装・言葉使い表情全て子どもの感覚から離れてしまう。何故研修を受けてさび付くか?当然さびついた指導官が指導するからです。私は理屈は教えられてもさび付いた感覚は教えられません。上下関係の指導は全面的な指導なのです。それこそ服装から挨拶まで。
今行っている社会教育センターに、時々30過ぎの青年?が来て先生と親しく話しています。若干発達上の問題を抱えているようですが、私はその人が小学校からそこに出入りしているのを見てきました。そういう人が何十年も自分居場所として出入できる場所って他にあるでしょうか。少なくても学校や病院では聞いたことがありません。センターの先生方の資質や努力もあったと思いますが気がついたのはそこの先生方は転勤が無くそこでずーと先生としていることです。そこの先生方は何十年もまえからその子のことや家庭や地域のことを知っているのです。公立学校の先生は次々転勤します。公立学校とのとの違いになりますが、子どもと先生の教育関係がちがうのです。
ちょっとしたら公立の教育行政は子どもと先生のの教育関係より行政上の官吏的・事務的関係をおっぴらに優先してはいないか。これは学校の様子をよく見てよく聞きさえすれば、どこでも誰でも確かめられると思う。ちょっと大げさかもしれないが学校は人間関係と心が不在だ。《この関係から逃れることはできませんが、良心的にわが身を犠牲にしてがんばっている先生方や現実に悩んでいる先生は思いのほか多くいます。親も同様でしょう。)
意外なことを発見した社会教育センターのお手伝いだった。
そこの先生達と一緒に子どもの主体的な動きを尊重しながら子どもと一緒に活動している。そこにはベテランの先生もいれば浪人中の学生や大学生、教員志望の人など私意外は多くが教師経験の無い若い人たちだ。面白いのは子ども達はその若い人たちにまつわりつき追っかけている。私は悔しい思いも無いではないがこの年になれば諦めもつく。私は常ずね、「いい先生の見分け方は一目で分る。子どもに追いかけられる先生は間違いなくいい先生です」と言ってきた。私も一つの理想として努力してきた。
子どもが求めているのは理屈ではない人間的な自分に通ずる感性なんです。
私は子どもとの教育の実践は今回のお手伝いでお終いにしようと思う。
年齢で致し方ないが、実はそれで説明できないところもあるのです。
私は長いこと公立学校でまあまあの教師をやってきたつもりですが、センターの先生方を見ているとベテランの先生も感性で若い人に負けていないのです。何故私(我々)と違うのか?
原因はいろいろあるとは思いますが、学校に勤務していた頃よく思ったのは、
新卒で来たばかりの先生はピカピカしているのに、2~3年もしないうちにくすんでさびついてくる感じになる先生が多いんです。特に最近はその傾向が強い。なぜか?
新任が受ける研修の成果?なのです。研修を受け服装・言葉使い表情全て子どもの感覚から離れてしまう。何故研修を受けてさび付くか?当然さびついた指導官が指導するからです。私は理屈は教えられてもさび付いた感覚は教えられません。上下関係の指導は全面的な指導なのです。それこそ服装から挨拶まで。
今行っている社会教育センターに、時々30過ぎの青年?が来て先生と親しく話しています。若干発達上の問題を抱えているようですが、私はその人が小学校からそこに出入りしているのを見てきました。そういう人が何十年も自分居場所として出入できる場所って他にあるでしょうか。少なくても学校や病院では聞いたことがありません。センターの先生方の資質や努力もあったと思いますが気がついたのはそこの先生方は転勤が無くそこでずーと先生としていることです。そこの先生方は何十年もまえからその子のことや家庭や地域のことを知っているのです。公立学校の先生は次々転勤します。公立学校とのとの違いになりますが、子どもと先生の教育関係がちがうのです。
ちょっとしたら公立の教育行政は子どもと先生のの教育関係より行政上の官吏的・事務的関係をおっぴらに優先してはいないか。これは学校の様子をよく見てよく聞きさえすれば、どこでも誰でも確かめられると思う。ちょっと大げさかもしれないが学校は人間関係と心が不在だ。《この関係から逃れることはできませんが、良心的にわが身を犠牲にしてがんばっている先生方や現実に悩んでいる先生は思いのほか多くいます。親も同様でしょう。)
意外なことを発見した社会教育センターのお手伝いだった。
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やっぱりどうしても解らない
今世界を見ていて、全てのこと例えば経済にしろ政治にしろ教育や文化も芸術も戦争も平和も人類の全ての営みは地球の存否を基本にかんがえないとすべてがなりたたず意味をなさなくなるのではないかと色々な報道に接するたびに考えさせられる。要するにテレビに登場する人々や新聞の社説さえも間断なく進行している地球の異変を頭の片隅にもあるようにはどうしても見えない。言い換えると人間の生存や成長もは自然の摂理や法則なしに人為を基本にしてよかった時代は来るとこまで来ているのにそれに全く反応しているように見えない。私の目には故人の大家壮一の言葉を借りれば「1億総白痴化」ならぬ「人類白痴化」か、温暖化の暑さにやられた大ボケか。宗教も含め物の考え方が部分的・断片的に見える。たとえば世界的な気象異常に人類が反応し対策を考えているとは思えないし連日報道される異常な事態や事件は常態化している。言わば社会は常にそれを内包しているのに詐欺的な対策らしい言葉が多く安心できるのはほんのわずかしかお目にできない。老人性の誇大な悲観論的妄想かもしれないが、でもやっぱりそう思う
。同じように感じている人も少しはいるだろう。私はあまり読書家ではないのでこれをよんでいる人でいい本があったら紹介してほしい。若い人の真似のできないような感性やバイタリティを計算してもやっぱり「大丈夫か?」と
思ってしまう。地球も人間も根こそぎ壊していることを社会ももリーダーも市民も
平気になっている。やってることがどうしても解らない。
。同じように感じている人も少しはいるだろう。私はあまり読書家ではないのでこれをよんでいる人でいい本があったら紹介してほしい。若い人の真似のできないような感性やバイタリティを計算してもやっぱり「大丈夫か?」と
思ってしまう。地球も人間も根こそぎ壊していることを社会ももリーダーも市民も
平気になっている。やってることがどうしても解らない。
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子どもが変わるきっかけ
(子どもが変わるきっかけ)は
1探索行動の保障《周りを警戒することなく動き出す自然な行動=動物的学習本能》
2子どもの話をしっかり聞く
1や2は言葉にすると簡単に聞こえるが実際はかなり困難だと思う。《自分の経験からも》
個人の努力と言うより個人の感性や生活上の条件がそれを困難にしている。
1については昔から家庭や学校はその場ではなかった。子ども達が戸外で自然とも関わりながら群れ遊ぶ中にあったが今はそういう時代で無くなった。家庭も学校もそれを補う子術を知らない。2は家庭も学校も必要は感じていてもその時間が無い。子どもが変わるきっかけとは本来の子どもの精神的成長を促すものだからこの機会が十分補償されない子どもは色々な困難に直面することになる。
子育て教育上の問題の噴出は全国的に多岐にわたりしかも幼児期にまでさかのぼるようになっている今日で、全くと言って良いほどその面から論ぜられない。
地球の資源や温暖化同様最も大切な問題から目をそらした瑣末な論議に終始しているように見える。子ども達の反乱や、地球のからの天罰を待つよりないのだろうか。勿論これは全てを語っているものでもなく今すぐどうのと言っているわけではない。ただこれが社会的に問題になるときはリスクが大きすぎにっちもさっちも行かないときではないかとの危惧を持っている。社会の大事な問題は落ち着いて人の話をよく聞ける人の論じてほしい。そうしないと社会も変化《発展》のきっかけもつかめない。
1探索行動の保障《周りを警戒することなく動き出す自然な行動=動物的学習本能》
2子どもの話をしっかり聞く
1や2は言葉にすると簡単に聞こえるが実際はかなり困難だと思う。《自分の経験からも》
個人の努力と言うより個人の感性や生活上の条件がそれを困難にしている。
1については昔から家庭や学校はその場ではなかった。子ども達が戸外で自然とも関わりながら群れ遊ぶ中にあったが今はそういう時代で無くなった。家庭も学校もそれを補う子術を知らない。2は家庭も学校も必要は感じていてもその時間が無い。子どもが変わるきっかけとは本来の子どもの精神的成長を促すものだからこの機会が十分補償されない子どもは色々な困難に直面することになる。
子育て教育上の問題の噴出は全国的に多岐にわたりしかも幼児期にまでさかのぼるようになっている今日で、全くと言って良いほどその面から論ぜられない。
地球の資源や温暖化同様最も大切な問題から目をそらした瑣末な論議に終始しているように見える。子ども達の反乱や、地球のからの天罰を待つよりないのだろうか。勿論これは全てを語っているものでもなく今すぐどうのと言っているわけではない。ただこれが社会的に問題になるときはリスクが大きすぎにっちもさっちも行かないときではないかとの危惧を持っている。社会の大事な問題は落ち着いて人の話をよく聞ける人の論じてほしい。そうしないと社会も変化《発展》のきっかけもつかめない。
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