コムスンに何故検察の手が入らないのか?

昨日来、コムスンの不正請求で会長があちこちのテレビで涙を流して謝っている。
 現役教師のとき、ある教師が「泣いて済むなら警察は要らない」と教室で子供を叱っていたのを思い出す。
 子供たちの目に大人たちが、
年金やこれらの不正事件を次々起こし、責任を取らないで、謝ったり誤らなかったりする大人は不思議に見えるだろうと思う。
 これだけ大規模な公金の横領・背任等の不正に法の番人である検察等の捜査の手すら入らない。不思議ではないか?
 粉飾決算でホリエモン、インサイダーで村上氏は逮捕された。きっと彼らは(どうして?)と思っているだろう。ちょっとしたら、
グッドウイルの会長も涙を流しながら心底同じ気持ちではないか、と思う。根っこは同じなのだから。

 政府機関の社会保険庁で年金の不正処理に、責任は棚上げ曖昧にされたまま、管理監督の行政府の責任者や、それを支える先生たちが、自らの立場や責任と関係なく、厚顔にあーだこーだやっている。「偽装に官民格差はない」とこの日記に、この間、書いたばかりだが、このテンポで不正が切れ目なく次々出るのを見ると、「不正の鉱脈の深さと広がりは見当もつかない」と見当つけるのが普通の感覚ではないか。
 
 月から温暖化や資源の枯渇で欠けはじめた地球でのこの様子を見るとどう見えるだろう?大丈夫?とつい声を掛けたくならないだろうか。
 今日の姿を子供の目から見ても、月から遠く臨んで見ても、我々は不思議な生き物に見えるだろうなー。
 
 同僚の教師も学級の主、大臣達も国の主。私のかつての職業(先生)も他人事ではない。

 子供と月と私、3者のお見合いは、怠れないなー!

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学んで覚える人と気がつく人の二つのタイプ

昨日の書いた学びの中身を単純化すると上記のように2つの学習のタイプがあると思った。言い換えると、情報や知識を多く求め学識や教養を高めるタイプの人と、判断や行動の元になる感覚を磨くタイプの人がいる。


 学びのスタイルが時代と共に変わったなと思う。社会が本来的に求めるのは後者のタイプだろう。
 社会が本当に求める学習のタイプと、実際に学校や親が求めている学習のタイプは反対になっているようだ。どこでどう取り違えているのだろう?
  学習(教育)そのものもが、(主観的に良かれとの思いでガンバッて)反対方向へ走ってはいないだろうか?

 

「大学へ行くと馬鹿になる」といった人がいたが,理屈上も、世の中の風潮を見ても一理あるのではないか。

そうすると、エライい勘違いがまかり通っていることになる。
 しかしそう解釈しないと、世の中の説明がむずかしい。

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学んで知ること と 忘れること

誰しも学ぶことは一生大切だろう。唯、学んで知ることと、同時に学んで忘れる(鈍磨する)ことがあるようだ。学び方にもよるが、いい事ばかりではない。ちょとしたら、新しい大事なことを知ると同時に、一方では今まで知っていた大事なことを忘れる(感覚が鈍磨する)仕組みがあるかもしれない。昔の人と比べると、今の人のほうが何倍も教育を受け学んでいる。世の中そんなに良くなっただろうか?かつて聴いたこともないようなとんでもない事件や犯罪が予定されてるかのように毎日毎日、規模も深刻さも数も、老若男女、管理されるほうも管理するほうも全く問わず次々発生する。高学歴社会で多くの人が学んだ結果である。始めに戻るが、学んで新しいことを知る学習と新しいことに気が付く学習の仕組みと2つのタイプがあるからだろう。前者は知識や教養を豊かにし後者は人の感性を磨く。現代は前者に価値観がおかれているようだ。子供のころは親でも学校でもどこへ言っても『子供はよく学び、よく遊べ』と言われ、どんな人も常識だった。あれは子育ての智恵だったのではないだろうか。人間ばかりでなく他の生き物にも通じる普遍的な法則ではなかったろうか。今、『よく学びよく遊べ』の言葉は殆どどこへ行っても聞かない。新し知識や教養であの法則は消えたのだろうか?これに似て、見失ったものがあまりに多いように思う。他とすり合わせ、無駄な贅肉を落とし、自分に気がつき、磨くような学びを心がけたい。人の話も含め全ての響きに耳(心)を傾けることだ。そこまでは分るが、悪い癖がついているからその先(実行)が難しい。
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思いがけない嬉しい不思議。

2-3日前本屋へ行ったら般若心経の小さな本が目に入り、なんとなく買った。臨済宗の玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)のかかれたもので、まず、仏教のめざす全体認識と陥りやすい部分認識の違いの説明が分りやすかった。
 本棚を整理していると、40年以上前、学生時代に読んだ禅の本が出てきた。赤茶けて古ぼけていたが、当時を思い出し感慨深かった。
 買ってきた般若心経を読んでいると、体の中にめぐるものが当時とずいぶん違っていた。
 当時は頭でそのと時の分りやすい言葉に直して読んでいたようだが、今は体で意味的にはいい加減差を沢山残しながら読み進めるが。何か今のほうが、読めている気がした。
 ところで私のすぐ上の兄貴は子供のころから読み書きは大嫌いだったが、若いうちから毎日のように般若心経を仏前で空で唱えていた。子供に読み書きを強いるのを職業とした私がこんな年になって般若心経に興味をもったのが不思議だが嬉しいものだ。
 この間兄弟に会った際、男ばかり、職業も異なり、いい年齢の6人兄弟全員が、今それぞれのところで趣味で、ちょこっとした畑をやっているようだった。
 子供のころは、みんな畑仕事は嫌いに見えたし、私なんかは逃げ回っていた。
思いがけない嬉しいことだった。
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政府機関の不祥事なのに

年金受給者の対象が分らなくなっているらしい。明らかな政府機関の失態である。
 これだけ大きな問題だから、責任の所在や責任の取り方もあるはずだが、それは問題にはならない。無責任は「官民問わず」だと書いたばかりだが、連日、目の前の国会(テレビ)で目にする。与野党とも、政争に気をとられ情緒的で責任のとらせ方やとり方を曖昧にしている。
  責任は社会的な関係で生まれ社会的な関係でその程度に応じて責任を取るのが普通だろう。社会的な「結果責任」と今後同じことが繰り返されないよう「後始末」としての責任も伴う。
 年金問題でも、責任の所在が曖昧で責任者が誰だか分らないままで、誰がどう責任を取るのかも分らないどころか、謝罪の言葉も聞けない。これが金融などの企業で起きた場合、ただでは済まない。こんなこと、
ホリエモンもびっくり。
 メディアの『どっちもどっち』的な判断もどうかと思うが、政府・与党や、攻める野党にもその責任感の希薄さを感じる。形式的であっても社会的な責任をはっきりさせるのは解決に向けた最低限の前提ではないだろうか。原理的には社会契約の社会が成り立たなくなる。もう既に、そこまで進行してしまっているようだ。。暴走する故障車に乗っているようで危っかしい感じがする。
 
 月から地球の様子を見ると、我々が月を見る時と同じようにロマンチックに見えるのかなー。それとも、危なっかしく見えるのかなー。

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