世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
騒がしい報道
報道が騒がしく感じることがよくある。テレビなど映像を静かに見ていたいのに映像と同時にやたらと解説する。
今年の学校合唱コンクール、昨日の大学駅伝と女子バレー。全く喧しかった。局ではショウアップのつもりかもしれないが、プロレス報道と一緒にしないほうがいい。
政治や経済、社会の出来事の専門家と言われる人の解説も恣意的で事実が見えにくくなることがよくある。局は節度を持って報道してほしい。
戦争と経済
従来、戦争は経済と民族の誇りが目的だったのではないだろうか。時代と共に経済競争は究極的な手法として戦争と言う【 手段】が用いられたと思う。
戦争で失う富と得る富はプラス>マイナスなら経済だけ考えれば意味がないともいえない。戦争と経済、これは太古の昔から現在に至るまで「勝てば儲かる」と言う法則は変わらないのだろうか?詳しく見てはいないが時代と共に(勝っても)採算が合わなくなっているように見える。戦後の世界の戦争を見てなおさらそんな気がする。
現在の日本の場合だったらどうだろう?食糧依存60パーセント超、石油ほぼ100パーセント、とにかく経済の構造が海外依存の高い日本にとって戦争と経済の関係はどうなるのか?軍備以前のリスク管理として計算しておく必要はないか。その辺の計算なく軍事の話題が出るのは、60年以上も前の日本が自他の国力や国際的視野を欠き計算もなく突っ込んでいった状況と基本的に変わっていない気がする。
視野が狭すぎると結果は思いとは逆にでるのは個人も社会も経験済み。世の中(きっと私も同じだとは思うが)は、独りよがりが色々な分野や場面で増えてる感じがする
にっちもさっちもいかない壁にぶち当たった号砲
2年前の郵政選挙で自民党が大勝した。その時、私は4~5年内に日本がにっちもさっちもいかない状態になるだろうと予測し、このブログにも書いた。耳を疑うよう出来事。安倍総理があのような経過で職を辞し、今回、福田総理と民主党小沢党首の大連合の密談(?)は端的な表れで号砲のようなもの。どんな壁にぶち当たっているかはどこからも知らされない。ただお二人は共に、そ壁の厚さを感じてのことだろうから気持ちは分る。共に前後や手順も考えず、トップ会談(密談)へ持っていったのは、壁に窮した気持ちは分るが、それぞれ準備してから始めるべきで今回のようなバタバタ劇はリーダーとしては共に情けない。ぶち当たった壁は、日本の経済そのもの。世間では好景気と報道されているが、実際の深刻さはトップシークレットになっているのではないか?(我々の眼に入る経済情報は目に余るほどいい加減で、情報と結果の違いは普通で問題にもならない)
経済の実態を経済の情報で誤魔化しきれないところまできていて、あっちを立てればこちらが立たずの、「王手・飛車取り」のところまで、追い詰められているのではないか。
現実を見て、現今のような「豊かさ」と欲に駆れてた「よこしま」を捨てるだけでいい。そこにこそ政治・経済・文化の【自然な智恵】が必要。焦ることはないのに。
昭和16年生まれ、66歳の私は、それを学んで来たような気がする。
(福田首相や小沢党首の耳にはとても届かないいでしょうけど。)
二人の娘へ
やっぱり、何が気になるって2人の娘が「一生幸せであってほしい」に尽きる。
幸せは、精神的には自然【人の内と外の】に逆らわず感謝するだけでいいのだが、こればかりは親は何もしてあげられない。
現実問題は生活する経済だ。
私の経済に関する経験の到達点は状況に合わせやり方を考えれば失業しようと病気しようと年をとろうと必ず道はあり、心配ないと言うことだ。(聞けば教えてやるよ。聞かなければ教えてやらない。)
今の世界の経済は←だけどこれも暫くはすったもんだしながら続く。その間は状況を見てよりいい場所と方法をを見つければそれなりにやれる。しかしいつか必ず行き詰まる。
←がもともと不合理な原理だから当然。。行き詰まると試行錯誤を繰り返し産業構造の方向を変換するかしかない。簡単に変換できるものでないから時間をかけ、しかし最終的には変更せざるを得ない.。現在の経済市場原理は賞味期限付きのフィクションでありこの経済社会はそのあだ花。だからと言って社会主義や計画経済がとって変わると言うような、古典的なバカなことは現実を見ればありえない。
世の中が壁にぶち当たったと感じた時は、早めに第1次産業に目を向けそこから生活の富を得る方法を考えるといい。可能なら財産を私有するのも良いが、それが許されなくても第1次産業に貢献できる技術や知見を身につけ磨き役立つ方法を探すといい。地球と人類の経済は一応その形で持続し落ち着くはず。
これが300年後か30年後か3年後か分らないが、一応、地球や人類の存続を考え、落ち着くところを見据えて、現在の対策を考えるのがいい。
とにかく、どんな場合も(どんなに暢気ではあっても)自然へのへの感謝と学びそして感覚磨きの練習、これだけは忘れないようにしたほうがいいと一応心がけてきたつもり。(実際はいっぱい道をはずした、それが私の道)
これで、2度目の遺言もどき !?(年のせいか、夜中に突然こんな事を考え起き出して書いた。 やっぱり可笑しいかなー?また寝よう。)
抽象的言葉に気をつけよう
確かに私などの老人には?と思うことも少なくない。社会や人間の変化に伴い、言葉や表現方法が変わるのは自然ではある。ただ言葉は伝達の道具だから、出す方と受け取る方に一定の共通した概念がないと伝達は意味を成さない。
「構造改革、憲法改正、憲法改悪、美しいい国づくり、少子高齢化、過疎化現象、家庭崩壊、学級崩壊、発展・発達した~」等など目にするたびにどこか違和感を感じる言葉だ。
例えば「~改革」は政策として教育・政治・行政・経済などずいぶん昔からよく使われた。改革だから間違いなく「良くする」と言う意味だが、その結果が不安に満ち希望を失った今日の現実である。
一体「改革」の意味はなんだったのだろうか?改正や改悪も同様だ。
少子高齢化のように~化や~崩壊言われるものも自然現象的な表現で、実際人為的な原因や背景を探ることが曖昧になっている物が多い。
発展・発達した~のように,自動詞として使われることが多くなっているが、人為的な意味合いが薄くなり、否定的な現象の責任が曖昧になっていることも多い。
これらの否定の仕様のない全てを包む表現であると同時に逆になんの意味もなさないことばが大手を振っているようだ。
これらの言葉使いは、政治・経済・学術的な専門分野、メディア始めなど我々の日常会話にまで至っている。
実態のはっきりしない無責任な言葉によって既に我々は動き、動かされていると言ってもいい。
抽象的で主体のはっきりしない言葉遣いには気をつけたい。出来るだけ具体的な内容と主体者(主語)をはっきりさせたいと思う。
以前から政治などに登場するキャッチフレーズに違和感を覚えていたが、年寄りの僻みかと思っていたら、同じように感じる人はいるものだ。
ドイツ人のベルクゼンという言語学者が「プラスチック・ワード」と言う本で、同じようなことが述べられていた。ほうとしたような、心配が増したような変な感じだ。
それはともかく、ジャーナリズム関係の人には1度読んでほしい本だ。
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