成るべくして成る




    時代の転換は国家を単位にしたものから世界を単位にした視野・考え方・行動への転換とも言える。

     現状が変化しているとは言え 長きに渡って使い習慣化した単位を切り替えるのは簡単ではないが 成るべくして成るものだ。


      
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象徴的な行き詰まった風景



首相「リーマン前の状況に近い」 危機感 共有に至らず 伊勢志摩サミット (2016.5.27東京新聞 朝刊 1面トップの大見出し)

   マスコミを含め今日の世界の現状を端的に言い表していると思う。

    主催国をはじめ何一つ期待できるような具体策が出せなかった。 広島を含め 欺瞞に満ちたセレモニーにとして自分の目には映った。

    (伊勢商人)の町で行われたのが なんとも皮肉。


「グローバりぜ―ションの時代」と言われながら その視野で語るリーダーを一人として見出せなかったが、そんな雰囲気の中でも 


財政出動にブレーキをかけたのは アメリカや主催の日本そしてマスコミをも凌いだ知恵だったと思う。

    
 
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遠ざかっている





新聞やテレビからハデハデなコマーシャルと有識者のホラやハッタリと口汚い非難や陰口を除くとと何が残るだろう?

   時々、昔からあった田舎の悪弊を 新聞やテレビから身近に感じることがある。

    あんまり良い感じではなく 前ほど見なくなった。
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道は遠い





アメリカからの声掛けがあったとは言え、このサミットで主催国である日本は 「世界経済の著しい停滞」の現状認識を基に{財政出動」を


参加国に要請し、色良い返事が貰えなかった。


この提案が拒否されるのは 世界的に見ると当然で 借金大国は「不思議な国」と映ったかもしれない。

 
ただ、「世界経済の著しい停滞」と言う現状認識は共有されただろう。

    今後は 内外の経済政策に期待したいが 先んずべき公の教育政策が 旧態依然としているから 回復には相当年月がかかりそう。

     これを サミットが見せた「現在の世界の顔」の一面として見れば それなりに意味がある。







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何をやってるの?





       オバマさんが広島で犠牲者に花を手向けるようだ。

国民の命や安全を守ろうとして兵器を より強い核兵器を準備した国の傘下に 私たちは入る。

    人が自然の一部であり 自然の理に従わざるを得ない存在であることを知りながら どうして 兵器で身の安全を図れるだろう。

     自然の理に背けば身の安全が脅かされるとは思うが 兵器や核兵器が自然の理に背かず適っていると本気で考えられるか。

         私たちは 自然にはむかい 剣を振りかざすドン・キホーテのようだ。
   
         あれは 子供にも滑稽に見えた。

    争いが嫌ならば 争いの準備をするのではなく争わない準備をした方が良いのに どれだけやっているだろう?
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感覚を喪失した社会




   人は必要のないものを(やかましい)とか(じゃま 邪魔)と感じると言う。

    最近は学校や子供の声 近所の風鈴の音さえ (うるさい!)と感じる人がいるらしい。
     ここまで来ると個人の文化や感覚の受容の問題と言うより 感覚を喪失した社会病理として社会的な対策が必要ではないのか。

      このこと自身を政治問題として取り上げ気配もない。どう取り戻す?

     
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大きな勘違い空間で




   一人一人が状況判断するところから民主主義は成り立つ とは思うが 色んな意味で 難しいようだ。

    現在は「民主主義の名で…」と建前にしてはいるが 実際は かなり違っている事を自覚しないと 大きな勘違いをしてしまう。
今、私たちは そういう状況下で それを「普通」として生活しているんだろうな…




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気が利かない






これだけ物事が世界規模で動いている時、経済も成長するには 自国が変わるか他国が変わるかしかないのは事の論理。

    サミットで分かるように 他国に期待できないなら自国が経済活動のスタイルを変える他ない。
   
    世界の状況を見てそうすべき時だが それも出来ないようだ。  

他国の変化が誰の目にもどこの国もが はっきり変わって見えるようになるまで、ジリ貧が続くとは思うが 気が利かないと思う。

     いつの間にか 他人の顔色を見て動く癖を忘れているんだろう。  

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財政的確立の必要性



             

     広い意味で 経済社会における教育活動は 経済活動の一環なのだが 別次元として扱い 結果そのリスクも見られる。

     特に日本では伝統的に「教育は聖職」として切り離す傾向が強い。かつては地域や企業が教育の経済的負担をカバーしてきたが 

今日その余力は乏しい。  当然教育の質の低下を招き、その結果今日の経済の停滞や縮小を招いているとも言える。


         企業や公は 立場や性格上 分かっていても方向転換はするのは難しい。結局は個人や法人などの声掛けや運動に期待するほかない。
 
      各分野においてはこれらの前後関係を自覚し 方向転換の進め方の基本に財政的確立を据え、その具体的な計画と試行が求められているようだ。 
     
        
 
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自然との対応力





人は人を中心にした経済社会を作り エリートは「知識」を中心とした情報処理能力は高いのだが 逆に自然や全体との対話は経験不足でを苦手にしているのも無理からぬこと。外的な自然や全体とのコミュニケーションは内なる感覚や意味付けとも相通じる。

   しかし、人がどう自然矢全体を認識しお付き合いしようと自然や全体があっての人間であることに変わりない。


    今の経済社会が行き詰まるのは自然の理で 基本に立ち返るためには改めて自然から学び直し 内・外の自然と会話し対応力を取り戻す以外にないだろうと考えている。

学力テストをする前に自然との会話や対応力検査をした方が良い。

入学試験でも入社試験でも評価の基準を変えないと 行き詰まりは打開しないのに相変わらずどころか「早期教育」と称して拍車すらかけてすらいる。

    経済も教育も逆方向に進んでいては 出口は遠のくばかり。
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