「瞳の奥の秘密」の通り、登場人物それぞれ、瞳の奥には秘密が隠されています。とりわけ、エスポシトへ秘めた思いに黒濡れるイレーネの瞳が印象的です。エスポシトもまた、イレーネに秘かな思いを寄せていますが(25年間!)、その茶色い瞳は、気弱に瞬き逸らされるばかり。互いの愛を、二人は伝えたことがありません。埋めがたい身分の違いが、二人の間に横たわっているからです。
出会いは25年前。アメリカ・イエール大卒のイレーネは、エスポシトのエリート上司として赴任してきます。若く美しく知的なイレーネを前にして、一目で惹きつけられたエスポシトですが、20歳以上も年長で高卒叩き上げの捜査官です。おまけに離婚歴もある。判事や裁判所上層部の引きがあるイレーネに対し、エスポシトの唯一の親友であり同僚のパブロときたら、妻にも見放されたアル中の鼻つまみ者です。
1980年代、「オーケストラ!」「フェアウェル」と同じ米ソ冷戦が続いていた時代。中南米諸国では、アメリカ傀儡の独裁政権とソ連が支援する反政府ゲリラが対立していました。アルゼンチンもその例外ではなかったのですが、ただ、ほかの中南米諸国とは異なり、アルゼンチンは白人が大多数を占める「南米のヨーロッパ」といわれる国です。それだけにヨーロッパの階級社会の影が色濃く残っているようです。
最近でこそ、階層化や格差社会が問題とされていますが、一億総中流という認識が長かった日本では、階級社会とか階層間格差について、あまりピンとこないところがあります。階級が異なれば、中味だけではなく、外見からして、ずいぶん違います。イレーネは堂々たる美人ですが、エスポシトの風采の上がらないこと。スチールやポスターは、さすがにハンサムに写していますが、日本でいえば、平日の早朝、パチンコ店前に行列しているおっさんに近いうらぶれた風情です。
エスポシトのライバル捜査官モラーノと二人が対決するところで、我々日本人にも、階級社会の深さと昏さがうかがえます。エスポシトとイレーネは、苦心の末逮捕して、終身刑になったはずの殺人犯ゴメスが釈放されているのを知ります。妻を殺されたモラレスが、大統領就任式を中継するTVに映っているゴメスを発見したのです。パリッとしたスーツ姿のゴメスは、警備陣の一人として群衆と陽射しを浴びていました。「なぜ、ゴメスを釈放したのか!」。エスポシトとイレーネは、モラーノに詰め寄ります。
モラーノは屈託なく、「ゴメスを役に立つ奴だ」といい、反政府ゲリラの内偵や家宅への忍び込みなど、裏の仕事に重宝に使っていると明かし、二人に、「騒いでも無駄だ」と釘を刺します。イレーネには笑顔をまじえ慇懃無礼に接しながら、エスポシトには掌を返したように恫喝します。「彼女は守られているが、お前はただのクズだ」。刑事裁判所のなかで、幹部のイレーネの前で、(いつでも、お前を殺せるんだぞ)と言外にいっているのです。
そして、睨み殺さんばかりに顔を近づけ、「彼女とではなく、なぜお前一人で来ない? 俺にいいたいことがあるなら、なぜ一人で来ない? 」と憎々しげに囁きます。モラーノはエスポシトに激怒をしていることを隠しません。なぜでしょうか。
相手の前で激怒できるのには、2つの前提が必要です。相手より圧倒的に上位であり、かつ正当性(そう信じられること)があること。国家権力の暗部に食い込み、汚れ仕事を請け負うモラーノが、エスポシトがはるかに及ばない後ろ盾と力を持っていることは確かです。だから、「お前はただのクズだ」と立場の優越を誇示しました。では、モラーノの正当性とは何でしょう。その答えが、「なぜお前一人で来ない?」のようです。
この場面を見ているときは、モラーノはエスポシトを「殺すぞ」と脅しつけていると理解していました。腐敗した警察で、正義の警察官が、悪徳警官に脅されるのはよくある場面です。脅しですから、すなわち警告です。「なぜ一人で来ない?」も、女のスカートに隠れてでなければ、俺の前に来ることもできない腰抜けが!という怒りと蔑みによる反問だと思いました。
モラーノに一言の反論もできず、すごすごと退出した二人。その後の場面で、モラーノがエスポシトに警告したのではなく、死刑宣告したことがわかります。3人のゴロツキがエスポシトの自宅へ押しかけ、たまたま留守居をしていた親友のパブロが射殺されるのです。警告ではなく宣告、脅しではなく実行。そこでモラーノが激怒したほんとうの意味がわかります。モラーノはエスポシトに、ある種、階級的な憤りを覚えたのではないでしょうか。
殺人犯を釈放し、非合法な捜査活動に使役するモラーノも、捜査官として正当性があるとは思っていません。しかし、エスポシトが間違っていることは確信している。エスポシトはイレーネのスカートに隠れた、「虎の威を借りた狐」だとモラーノは考えた。下層階級を同じくするエスポシトが、上階級者を使って自分に圧力をかけたという憤りが、まずモラーノにはあります。ここまでは同じです。
闇権力の末端として、邪魔なエスポシトを排除するという合理的行動には、モラーノにとって、何ら怒りを必要とはしません。もちろん、モラーノはかねてからエスポシトを快く思っていませんが、殺すほど憎んではいない。しかし、エスポシトがイレーネを巻き込み、階級を越えて圧力をかけようとしたことで、警告抜きの殺害の動機が生まれたわけです。これもわかります。では、なぜ、「なぜ一人で来ない?」としつこく尋ねたのか?
暴露の可能性が生じたことで、自分には制御不能になったから、ただちにお前を殺さなくてならなくなった。すべては、身の程知らずのお前、エスポシトの独りよがりが招いた結果なのだ。一人で来たなら警告に留めていたものを。これがモラーノが、「なぜ一人で来ない?」と激怒したほんとうの理由です。つまり、モラーノはエスポシトを殺すつもりはなかった。同じ下層階級出身者として、助け合うことすら考えていた。俺はお前を殺さず、お前は俺の出世を邪魔しない。
エスポシトからいえば、モラーノと話し合いや取り引きする関係ではなくなったのには、自分にもその責任があると認めたからこそ、親友パブロの仇をとるどころか、身に迫る危険から逃れるために、首都から逃げようとするのです。その尻尾を巻いて逃げる算段さえ自分ではできず、田舎の警察に赴任する手配をしたのは、やはりイレーネなのです。もう、エスポシトの胸は、自責と自虐でズタズタです。
駅のホームに見送りに来たイレーネとの哀切こもる別れの場面は、次回に続く。
もうね、エスポシトは全然ダメ男ですね。登場人物の中で一番のヘタレ。だからこそ感情移入できるのですが。なぜエスポシトは、モラレス夫人殺人事件に執着したのか、それはけっして「正義の味方」だったからではない、というのは次回に盛り込めるかどうか。長くなりそう。読んでいるだけで2時間7分以上かかりそう。さっさと観たほうが早いですよっと。