3月11日午後2時46分、東京深川。6階建ての社屋の5階にいた。かなり強い揺れがはじまり、さらに激しい揺れとなる。長い。書類棚などが倒れそうになり、中味が散乱する。窓の外を見ると、嫌な感じの黒い雲が現れている。女性たちは机の下に隠れようとしている。一人は泣き叫んで、「子どもが家で寝ているの!」。それをなだめる「大丈夫よ、大丈夫」という声。男たちは、私を含め、両脚を開き、足から伝わってくる揺れを測るように、立ち尽くしている。「これは、すごいな」「長いよ」「窓際からは離れたほうがいい」。はじめ面白がっているような声色が、だんだんに真剣味を増し、不安が滲んでくる。その間、それでも数分か、とても長い間揺れているように感じた。「こんなのは初めてだ」。第一の揺れが収まって口々。散乱した書類を片づける者。エレベーターが止まっていることを知らせる者。パソコンのニュースを漁る者。泣き叫んだ女性は、家に電話をかけて、子どもの声を聴き、「大丈夫? 怖かったよお」と涙声の間にも、また強い余震。「おいおい」「これは」「震度7だって、宮城が震源地」「こっちはいくつあったんだ」「震度5くらいじゃないか」「船酔いみたいに気持ち悪くなってきた」「こりゃ、仕事にならんな」「菅のバカヤローに天が怒ったんだよ」「もしかすると、日本おしまいか」「またきた」「外に出ているやつの安否確認したほうがいいんじゃないか」。それぞれがその場にいる全員に訴えるように、いつもより声が大きい。「やっぱり、戦争を経験した人は落ち着いてるわ」と年輩者をからかう、いつもの冗談に、いつものように笑い声が上がるが、新しい冗談やジョークは出ない。それぞれが、家族に電話しようと携帯を操作しはじめる。誰も通じない。安否確認のために、出先の者に電話をかけはじめた女性職員も、「ダメです」の連発。固定電話も不通。呼び出し音さえ鳴らず、かなり後になってから、ようやく、「あなたのおかけになった地域は混雑のため通じにくくなっています」というアナウンスが流れるようになった。メールも使えない。どこにも誰にも電話が通じないことがわかってから、みな、ようやく事の重大さを感じはじめた様子だった。「○○さん! いまどこ? 大丈夫?」「おっ、通じたらしい」「そうか、ドコモもauもダメだけど、ピッチは通じるんだ。○○はウィルコムだから」。全員帰社して待機の指示が出たのが、午後4時。東京のすべての交通機関が運転取り止めになっていることが知れ、帰宅の方法について論議が続いている。「永代通りは、浅草仲見世並みの混雑だよ」「歩いて帰るのは無理だよ、八王子まで」「自転車があるよ」「バカいえ、新宿までさえ、2時間近くかかるのに」「タクシー乗り合わせていくか」「車も動かないよ、だからみんな歩いてるんだ」。「会社に泊まるしかないか」「ホテルや漫喫(まんきつ)はいっぱいだろうしな」。午後8時少し前、バスを乗り継いで帰ろうと、私も永代通りを歩き出す。見たこともないほど多くの人々が歩いているが、いつもの週末と変わらぬ平穏な様子、ただしみな急ぎ足なのが違う。飲食店とコンビニには、どこも行列ができているほど混雑。(儲かっているな)とその活気が少し嬉しい。地下鉄の2駅間をバスと一緒に歩く。車は大渋滞で歩行と同じくらいしか進まず、バス停にもほとんど人は並んでいない。「大江戸線は動くらしい」という声を聞きつけ、構内に下りる。まだ、知られていないのか、それほど電車を待つ人はいない。ほとんど最初の復旧車両に座って乗ることができ、接続する私鉄に乗り換え、徐行運転のためにふだんの倍以上の時間はかかったものの、0時過ぎに帰宅することができた。
4時半、携帯の地震速報で起こされた。