ボクは今、奥田英朗の『オリンピックの身代金』を読んでいる。東京オリンピックを間近にひかえた東京は、オリンピック関係工事の騒音に包まれていた。
その騒音をつくりだしていた人びとのほとんどは、全国の寒村からの出稼ぎ労働者だった。このときも、そして今も、公共工事を請け負う鹿島などのゼネコンをトップに、何層にもわたる下請け構造が存在し、そのもっとも底辺には、低賃金で過酷な労働があった。彼らは飯場で生活し、ただ少額の金を得るために働き、働くために食い、そして眠った。
「格差社会」ということばがマスメディアで報じられるようになったのは、いつ頃のことだろうか。
小泉内閣が派遣労働を製造業にまで解禁した頃から、今まで日本経済の成長を支えた第二次産業の労働者の多くが非正規労働者となり、景気の善し悪しに応じて、工場の門を出たり入ったりするようになった。職を失った労働者は、住むところもなくなり、路上で生活するようになり社会問題となっていった。
だがボクは、ふと思う。「格差社会」は、ずっと前から、ボクたちの社会では当たり前のこととしてあった。ボクたちの住む地域では、金持ちのことを「オダイサマ」と呼んでいた。子どもの頃も「オダイサマ」はいた。その一方で、戦災住宅のような安普請の「長屋」に住んでいた友人もいた。こう書くのも気が重いが、垢じみた同じ服を、いつも着ていた。
1960年代を中心とした高度経済成長は、そういう姿を見えなくした。
東京オリンピックは、1964年のことだ。高度経済成長の真ん中で、ボクたちの周辺から貧困が見えなくなってきたとき、寒村は経済成長とは無縁だった。いやそれは正確ではない。都会の高度経済成長は、寒村の低賃金労働力を踏み台にして成し遂げられたのだ。寒村は、寒村のまま、都会に収奪されていたのだ。
この『オリンピックの身代金』は、秋田のそうした寒村からの出稼ぎ労働者の存在を背景にする。寒村に生まれ、寒村で成長し、そして結婚し、都会に出稼ぎに行く。そうして過酷な低賃金労働に耐えながら、稼いだカネを故郷に送る。農繁期になると帰郷して、過酷な労働に耐える。いつも、いつも耐えながら、貧困を生きる。
そうした現実はなくなっていたのか。「オダイサマ」の存在とそうした出稼ぎ労働者、まさにこれは「格差社会」ではないか。
ボクはが大学を卒業した頃、繊維産業に働く女子労働者の実態を見る機会があり、そこに現代の「女工哀史」を発見したことがある(それについて、「“暁”を求めてー現代の「織姫」たち」というルポを書いた)。そこにも貧困は厳然と存在していた。
『オリンピックの身代金』は、そうした現実をボクの記憶から呼び戻している。だから、読み進めるのがなかなかたいへんだ。ストーリーの先に進んでいく「足取り」(?)がとにかく重い。
奥田が、こういうシビアな小説を書いているとは知らなかったし、奥田の才能に感服するしかない。
{付記}
他方で、村上春樹の作品は、読み進めるのに、まったく苦労がない。それはなぜか。村上の作品には、現実がないからだ。ボクたちは寄せては来る様々な社会的・経済的・政治的葛藤に、あるときは立ち向かい、あるときはよけ、あるときは敗北しながら、生きていく。
ところが、村上作品には、精神的な葛藤はある。だが精神的に葛藤するその人間の生存の基盤としての、社会的・経済的・政治的なそれが捨象されているのだ。もちろん精神的な葛藤を説明するために、そうしたものへの言及がなされることはある。だがそれは真正面から記されることはない。
ボクが、村上作品の第一印象を「軽い」としたことは、決して間違いではないと、奥田のこの本を読みながら確信した。
やはり、村上の作品は、観念の産物なのだ。
なぜ若者が村上作品に魅力を感じるのか。人生の途上に現れてくる、様々な客観的な現実を若者は直視しようとしない。現実があまりにもたいへんだから、あるいは閉塞した現代社会に生きているからか、直視しなくてもいいのならそのままで生きていこうとする姿勢、そうした生き方が、村上作品と共鳴をおこすのではないだろうか。
ボクたちは、生きる。その生きるということは、まさに現実的に生きるということなのだ。こちらが現実を無視しても、現実はしっかとボクたちを掴まえて離さない。
東京オリンピック関係の建設工事に従事する低賃金労働力として、寒村の農民たちが構造的に組み込まれていたように、である。
その騒音をつくりだしていた人びとのほとんどは、全国の寒村からの出稼ぎ労働者だった。このときも、そして今も、公共工事を請け負う鹿島などのゼネコンをトップに、何層にもわたる下請け構造が存在し、そのもっとも底辺には、低賃金で過酷な労働があった。彼らは飯場で生活し、ただ少額の金を得るために働き、働くために食い、そして眠った。
「格差社会」ということばがマスメディアで報じられるようになったのは、いつ頃のことだろうか。
小泉内閣が派遣労働を製造業にまで解禁した頃から、今まで日本経済の成長を支えた第二次産業の労働者の多くが非正規労働者となり、景気の善し悪しに応じて、工場の門を出たり入ったりするようになった。職を失った労働者は、住むところもなくなり、路上で生活するようになり社会問題となっていった。
だがボクは、ふと思う。「格差社会」は、ずっと前から、ボクたちの社会では当たり前のこととしてあった。ボクたちの住む地域では、金持ちのことを「オダイサマ」と呼んでいた。子どもの頃も「オダイサマ」はいた。その一方で、戦災住宅のような安普請の「長屋」に住んでいた友人もいた。こう書くのも気が重いが、垢じみた同じ服を、いつも着ていた。
1960年代を中心とした高度経済成長は、そういう姿を見えなくした。
東京オリンピックは、1964年のことだ。高度経済成長の真ん中で、ボクたちの周辺から貧困が見えなくなってきたとき、寒村は経済成長とは無縁だった。いやそれは正確ではない。都会の高度経済成長は、寒村の低賃金労働力を踏み台にして成し遂げられたのだ。寒村は、寒村のまま、都会に収奪されていたのだ。
この『オリンピックの身代金』は、秋田のそうした寒村からの出稼ぎ労働者の存在を背景にする。寒村に生まれ、寒村で成長し、そして結婚し、都会に出稼ぎに行く。そうして過酷な低賃金労働に耐えながら、稼いだカネを故郷に送る。農繁期になると帰郷して、過酷な労働に耐える。いつも、いつも耐えながら、貧困を生きる。
そうした現実はなくなっていたのか。「オダイサマ」の存在とそうした出稼ぎ労働者、まさにこれは「格差社会」ではないか。
ボクはが大学を卒業した頃、繊維産業に働く女子労働者の実態を見る機会があり、そこに現代の「女工哀史」を発見したことがある(それについて、「“暁”を求めてー現代の「織姫」たち」というルポを書いた)。そこにも貧困は厳然と存在していた。
『オリンピックの身代金』は、そうした現実をボクの記憶から呼び戻している。だから、読み進めるのがなかなかたいへんだ。ストーリーの先に進んでいく「足取り」(?)がとにかく重い。
奥田が、こういうシビアな小説を書いているとは知らなかったし、奥田の才能に感服するしかない。
{付記}
他方で、村上春樹の作品は、読み進めるのに、まったく苦労がない。それはなぜか。村上の作品には、現実がないからだ。ボクたちは寄せては来る様々な社会的・経済的・政治的葛藤に、あるときは立ち向かい、あるときはよけ、あるときは敗北しながら、生きていく。
ところが、村上作品には、精神的な葛藤はある。だが精神的に葛藤するその人間の生存の基盤としての、社会的・経済的・政治的なそれが捨象されているのだ。もちろん精神的な葛藤を説明するために、そうしたものへの言及がなされることはある。だがそれは真正面から記されることはない。
ボクが、村上作品の第一印象を「軽い」としたことは、決して間違いではないと、奥田のこの本を読みながら確信した。
やはり、村上の作品は、観念の産物なのだ。
なぜ若者が村上作品に魅力を感じるのか。人生の途上に現れてくる、様々な客観的な現実を若者は直視しようとしない。現実があまりにもたいへんだから、あるいは閉塞した現代社会に生きているからか、直視しなくてもいいのならそのままで生きていこうとする姿勢、そうした生き方が、村上作品と共鳴をおこすのではないだろうか。
ボクたちは、生きる。その生きるということは、まさに現実的に生きるということなのだ。こちらが現実を無視しても、現実はしっかとボクたちを掴まえて離さない。
東京オリンピック関係の建設工事に従事する低賃金労働力として、寒村の農民たちが構造的に組み込まれていたように、である。