浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

映画と読書

2013-02-01 22:37:51 | 日記
 奥田英朗の『オリンピックの身代金』を読み始めた。村上の次の本が図書館から来ないからだ。

 『ララピポ』とは異なり、硬派の小説のようだ。それを読み終えたら、Yさんが推薦した『ねじまき・・・』を読み始めよう。

 今日は、映画を2本見た。TSUTAYAから借りてきたものだ。「ララピポ」と「ノルウェイの森」。「ララピポ」の脚本を書いたのは中島哲也。中島の脚本による「嫌われ松子の一生」、「下妻物語」の映画が面白かったので借りてきたのだが、原作と比べるとどうもイマイチであった。

 「ノルウェイの森」は、原作を読んでいないとなかなか理解できないようなものだった。ということは、映画が独立した作品になっていないということだ。

 この映画を見てなるほどと思ったことがあった。村上のこの作品は、観念小説だということだ。荒唐無稽の物語を村上は書いているが、これはそれとは異なり、相対的に現実的なストーリーであったが、映画を見ていると、やはり地に足をつけた内容ではない、抽象的なものだということがわかる。

 バックに流れていた曲は、もちろんビートルズの「ノルウェイの森」もあるが、現代音楽的なものが多かった。そういうバック音楽でないと、このストーリーにはあわないのだ。ジャズでもなく、クラシックでもなく・・・・


{追記} 
 『噂の女』の本を紹介したブログの最後に「明日も明後日も生きていかなければならないのだ。フーッ」と書いた。それは『ララピポ』の最後の部分に書かれていた文を借用したものだが、町田の住人から「明日も明後日も生きていかなければならないのだ。フーッと書いておられますが、お先に行かれてもけっこうです」というメールがきた。

 町田の住人より先に行くわけには行かない。まだまだしなければならないことがある。ボクは奴隷ではないから。
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【本】奥田英朗『噂の女』(新潮社)

2013-02-01 10:05:36 | 日記
 たくさんの人が読みたがっている小説である。たいへん読みやすい。

 糸井美幸という、幸せな家庭に生まれ育たなかった薄倖の少女が、長じて金持ちの男たちに取り入り、その男たちを睡眠薬などで殺して、その男たちの財産を奪い取り、最後には姿を消す。

 地方都市に住む糸井美幸の行状は、多くの人々の噂になる。金持ちの男に取り入ってカネを獲得する、女はそれを隠れてやっているわけではない。半ば公然と行っている。女がその金持ちのカネに取り入るということは、他の者たちもそのカネに群がるということでもある。

 金持ちが若い女(糸井)を愛人とし、その女にカネをつぎ込むということは、小金持ちたちの願望でもある。

 若い女が男たちを手玉にとってカネを奪い取っていく姿は、そのほかの若い女たちにとっても、一種のあこがれでもある。そうしてでも、カネに不自由しない生き方をしたいのである。

 糸井美幸という、薄倖の少女が「噂の女」になって大金を稼いでいくプロセスは、人びとにとって許容範囲のことである。人びとは、とにかく正義とか、理念とかに依拠したり、人としてのあるべき姿を求めて生きているわけではない。糸井という「噂の女」の倫理観と、大同小異なのである。

 そのようにして市井の人びとは生きてきたし、これからも生きていく。

 奥田は、地方都市の市井の人びとの、そうした生き方を、糸井という「噂の女」を軸にして明らかにしていく。別にそれを非難したりするのではない。示すだけだ。

 私たちは、あり得る話だなと思いながら読み、そしてその物語を忘れていく。

 市井の人びとによってつくられている今の社会のあり方、理念とか正義とかに拘束されないでこの大地を這いずり回りながら生きるためのカネ、少し贅沢をするためのカネを求めて生きていくというあり方が、今後もずっと続いていくのだろうと思いながら、本を閉じるのである。何も変わらない、何も変えようとしない。同じような生活を、続けていくのだ。

 とにかく、明日も明後日も生きていかなければならないのだ。フーッ!!
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