村上作品を読む人は、水を飲むように読んでいくのだという。おそらく、その場合、暑い日、戸外でスポーツなどをやっていた直後に飲む水なのだろうと思う。
ボクは、そうではない。ムムッ、これはおかしい、と思いながら読んでいく。
今『ねじまき鳥クロニクル』第三部を読んでいるが、まず確か第二部の最後で、路地の向こうの空き家(もと宮脇さん宅)の土地はどこかに売れて高い塀が建てられたのではなかったか。
ところが、第三部の9は「井戸の底で」だ。主人公は井戸には入れたのか。それともそれは空想の産物なのか。
そして赤坂ナツメグ。彼女は主人公の問いかけ、たとえば「なぜ服を買ってくれるのか」という問いに「返事を」しないのに、自らの過去、戦時中の話については饒舌なのはなぜ?
さらにナツメグはこういう。「(みずからの記憶について話していて)それについて深く考えれば考えるほど、その鮮明さのいったいどこまでが真実で、どこからが私の想像力の創りあげたものなのか判断がつかなくなってくるのよ。まるで迷宮に迷い込んだみたいにね。そういう経験ってあなたにはある?」と。
主人公ー「僕にはなかった。」
それはないだろう。主人公のそういう場面を、今までにいっぱい書いているではないか。
「満洲」(ボクは「洲」を使う)の「新京」の動物園で、そこの動物が日本軍によって殺された。そこで獣医は考える。
動物たちが存在していた世界と「抹殺された」世界。「とすれば、そのふたつの異なった世界のあいだには何か大きな、決定的なずれのようなものがあるはずなのだ。なくてはならないのだ。」村上は、こういう追い込んでいくような書き方をよくする。そして「でも彼にはどうしてもその違いを見つけることができなかった。」
これってとても「思わせぶり」。なぜ動物園の動物たちが殺される前と後で「世界」に「ずれ」があるの?
そして獣医は、村上作品によく登場する「突然、彼は、自分がひどく疲れていることに気づいた」がその後に続く。そう村上作品に登場する人は、とにかく疲れるのだ。たいへんな方たちだ。
話の筋から言うと、前後してしまうが、さらにさらに、ナツメグが「満洲」から帰ってくる時に、米軍の潜水艦に船を止められた。このときの記述。
この潜水艦は、私たちみんなを殺すために深い海の底から姿を現したのだ。でもそれはべつに不思議なことじゃないと、彼女は思った。それは戦争とは関係なく、誰にでもどこにでも起こりうることなのだ。みんなはこれがみんな戦争のことだと思っている。でもそうじゃない。戦争というのは、ここにあるいろんなものの中のひとつに過ぎないのだ。
潜水艦が「殺すために」姿を現したんだったら、それは戦争だよ。しかし、この「潜水艦」のことを、評論家たちは、オウム真理教による無差別テロのような無差別殺人(秋葉原やグアム島で起きた事件)のことを象徴しているのだ、と言うのだろう。
村上春樹流に、ボクは「そうかもしれない」と一応は言う。だがこの脈絡で、そういう「読み込み」は可能なのか。「戦争体制」は平時からの延長線上にはあるが、質的に平時とは異なる。ついでに言っておけば、その質的変化は「ずれ」で片付くものではない。
「戦争」と「テロ」は法的にも異なる扱いだ。「戦争」と「テロ」を同レベルにまで押し上げたことがないわけではない。ブッシュがそうした。もちろん、「暴力」という次元でなら、それは共通ではある。だが、「戦争」と「テロ」を同格にするのなら、それはブッシュの論理でもある。村上は、そこまで踏み込むのだろうか。
(続く)
ボクは、そうではない。ムムッ、これはおかしい、と思いながら読んでいく。
今『ねじまき鳥クロニクル』第三部を読んでいるが、まず確か第二部の最後で、路地の向こうの空き家(もと宮脇さん宅)の土地はどこかに売れて高い塀が建てられたのではなかったか。
ところが、第三部の9は「井戸の底で」だ。主人公は井戸には入れたのか。それともそれは空想の産物なのか。
そして赤坂ナツメグ。彼女は主人公の問いかけ、たとえば「なぜ服を買ってくれるのか」という問いに「返事を」しないのに、自らの過去、戦時中の話については饒舌なのはなぜ?
さらにナツメグはこういう。「(みずからの記憶について話していて)それについて深く考えれば考えるほど、その鮮明さのいったいどこまでが真実で、どこからが私の想像力の創りあげたものなのか判断がつかなくなってくるのよ。まるで迷宮に迷い込んだみたいにね。そういう経験ってあなたにはある?」と。
主人公ー「僕にはなかった。」
それはないだろう。主人公のそういう場面を、今までにいっぱい書いているではないか。
「満洲」(ボクは「洲」を使う)の「新京」の動物園で、そこの動物が日本軍によって殺された。そこで獣医は考える。
動物たちが存在していた世界と「抹殺された」世界。「とすれば、そのふたつの異なった世界のあいだには何か大きな、決定的なずれのようなものがあるはずなのだ。なくてはならないのだ。」村上は、こういう追い込んでいくような書き方をよくする。そして「でも彼にはどうしてもその違いを見つけることができなかった。」
これってとても「思わせぶり」。なぜ動物園の動物たちが殺される前と後で「世界」に「ずれ」があるの?
そして獣医は、村上作品によく登場する「突然、彼は、自分がひどく疲れていることに気づいた」がその後に続く。そう村上作品に登場する人は、とにかく疲れるのだ。たいへんな方たちだ。
話の筋から言うと、前後してしまうが、さらにさらに、ナツメグが「満洲」から帰ってくる時に、米軍の潜水艦に船を止められた。このときの記述。
この潜水艦は、私たちみんなを殺すために深い海の底から姿を現したのだ。でもそれはべつに不思議なことじゃないと、彼女は思った。それは戦争とは関係なく、誰にでもどこにでも起こりうることなのだ。みんなはこれがみんな戦争のことだと思っている。でもそうじゃない。戦争というのは、ここにあるいろんなものの中のひとつに過ぎないのだ。
潜水艦が「殺すために」姿を現したんだったら、それは戦争だよ。しかし、この「潜水艦」のことを、評論家たちは、オウム真理教による無差別テロのような無差別殺人(秋葉原やグアム島で起きた事件)のことを象徴しているのだ、と言うのだろう。
村上春樹流に、ボクは「そうかもしれない」と一応は言う。だがこの脈絡で、そういう「読み込み」は可能なのか。「戦争体制」は平時からの延長線上にはあるが、質的に平時とは異なる。ついでに言っておけば、その質的変化は「ずれ」で片付くものではない。
「戦争」と「テロ」は法的にも異なる扱いだ。「戦争」と「テロ」を同レベルにまで押し上げたことがないわけではない。ブッシュがそうした。もちろん、「暴力」という次元でなら、それは共通ではある。だが、「戦争」と「テロ」を同格にするのなら、それはブッシュの論理でもある。村上は、そこまで踏み込むのだろうか。
(続く)