浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「メディア時評」

2013-02-11 21:34:54 | 日記
 『世界』(岩波書店)3月号を購入した。

 ボクは、『世界』は毎月購読している。政治・社会について、まっとうな批判的精神を持った雑誌は、今では数少なく、『世界』はそのなかでも卓越した批判的姿勢を堅持している。

 ボクがいつもまっ先に読むのは、神保太郎氏による「メディア時評」である。

 日々の政治や経済、社会の情報をどこから入手するかというと、ほとんどがテレビや新聞となる。マスメディアに依存しないと、情報は得られない。もちろんインターネットを駆使していれば、テレビや新聞が報じないことも知ることが出来るが、大方の人はそうしていない。マスメディアこそ、国民の情報入手の手段となる。

 ところが、マスメディアは、何度も記しているが、基本的に支配権力の一部を構成するメディア権力と化している。したがって流される情報は、権力の点検を受けているか、あるいは権力が許容する内容のものと言うべきであろう。

 そして残念ながら、ボクは少なくとも、テレビは見ないから、あるいは新聞は『中日新聞』しかみていないから、メディア権力の流す情報がどういうものかを知ることができない。

 そういうとき、神保氏の「メディア批評」は、マスメディアがどういうことを報じているかについて、厳しく、根拠に基づいて批判している。

 今月号は、安倍という人物の、あるいは安倍という人物の周囲にいる者たちの、質の悪さを正確に指摘している。とくになぜ人気があるか分からない石破の、無内容な、神保氏がいう「念入りな愚論」に対する言及は見事である。

 また神保氏は、安倍に関して「もしや、この人の頭の中には、メディアはガセを流せば飛びつき、恫喝すればすぐに引っ込むというような、とても幼稚で傲慢な観念が詰まっているのではなかろうか」と指摘するが、おそらく安倍の頭の中はそうなっているのだろうと思う。なぜなら、マスメディアはガセに飛びつき、恫喝に屈しているからだ。

 そしてこの安倍について、日本の東京発行紙のうち『東京新聞』を除いた各紙は、安倍政権に迎合的である(各紙に濃淡はある)が、欧米紙はきちんと指摘すべきを指摘しているという。そして末尾にこう記す。

 「海外メディアは、安倍政権の経済政策・外交政策だけではなく、そのリーダーとしての根本的な資質と、教養について疑問を投げかけている」

 資質と教養に欠ける者たちによる内閣が、今日本の政治や経済を動かそうとしている。しかしそうさせたのは、残念ながら日本国民なのだ。ということは日本国民もまた・・・・・なのか。

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【本】奥田英朗『最悪』(講談社文庫)

2013-02-11 09:18:36 | 日記
 これも長い小説だ。下請け企業の経営者、女子銀行員、パチンコで収入を得ていた少年。この三人がそれぞれの苦難に満ちた生活を過ごしていく中で、最終的には銀行強盗事件でそれぞれの人生が一つになる。

 下請け企業は、その上の下請け企業からの無理な注文を文句も言わずにひたすらこなしていく。そうでないと生きていけない。休日も夜間労働も当たり前。女子銀行員は会社の一員としての行事などに参加しながら日々変わらない人生を真面目に生きている。そして少年はパチンコで儲けながら、チンピラなんかと犯罪を犯しながら生きている。

 それぞれの生が展開する中で、それぞれが「最悪」に向かって、坂道を転がるように落ちていく。その転がり方は、あり得ることとして理解の範囲のなかでストーリーは動いていく。

 その「最悪」は、銀行強盗事件へと突き進む。経営者、少年、銀行員とその妹がその構成メンバーだ。そこまでは理解の範囲。だがその後は奇想天外の動きとなる。荒唐無稽といってもよい。この4人、被害者・加害者でもあるのだが。それが一つとなって御殿場に逃げていくのだ。これはないよなあ、と思いながら読み進むのだが、その奇想天外な話には迫力があり、目を離せなくさせる。

 そして逃げ込んだバンガローにヤクザ集団が殴り込みをかけ、さらに警察によって逮捕される。まあすごい話だ。

 しかし結末は「最悪」ではない。それぞれがそれぞれの人生を静かに生きていく。経営者は背伸びをしないでひたすら仕事に没頭し、銀行員は銀行を辞め他の仕事に就く、そして少年は拘置所へ。誰も死なないし、悲劇のどん底にも落ちていかないで、踏みとどまる。

 考えて見れば、奥田の作品は奈落の底に落ちていかずに、どこかで止まる。交通事故で死んだのかなあと思うと、後から松葉杖で再登場したり。

 まあエンターテインメントの作品だ。ただそれらの作品は、現実の姿に足場を置いて展開される。その現実はまさに人びとが生きる現実で、そこには喜びもあれば苦しみもある、ボクたちが生きる生活の場である。奥田はエンターテイナーとして作品を読ませながら、そこに現実の厳しさを指摘しているようだ。
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