やっと読み終えた。謎だらけの小説であった。謎を謎のままにしておいて、主人公がその謎を解くために、いろいろ想像したり、夢をみたりする。読む者を、決してわからせようとしない。村上作品が主人公にいわせる「わからない」は、読む者を「わからない」の状態に吊り下げたまま決して下ろしてくれない。
この小説第三部、これまた読者を中空に吊り下げているかのような状態。
主人公は、例の「屋敷」にある井戸に入っていく。そこでなぜか区民プールで泳いでいることを思い浮かべると、「べつの暗闇の中」にいく。「壁を抜け」て。そしてどこかの部屋にいる。ホテルのようなところだ。その部屋は208。そこには誰かがいた気配があった。「部屋のドアには208という番号がついていた」のだから、208なのだろう。そしてそこをでる。ロビーに出ようとしたのだ。途中、「泥棒カササギ」の曲を口笛で吹いていたボーイに遭遇する。その後を追っていくと、208。そこは「誰かがいる」。そこは「何か危険なものが潜んでいる」のだそうだ。しかし「壁を抜け」て最初に到達したのは、208だろうが。なぜ「危険」があるのか。主人公は部屋に入るのをやめてロビーに行く。するとテレビでは、クミコの兄がバットで襲われて重傷というニュースを報じている。暴漢は、なぜか主人公とそっくりだ。主人公はロビーから逃げるようにロビーを去る。人が追ってくる。すると「顔のない男」が主人公を助ける。なぜ助けるのか?なんて聞いてはいけない。因果関係なんかない。突然そういう状況が提示される。そして208に入る。そこは「危険な場所」だそうだ。
そこには「女」がいた。主人公は、その「女」をクミコとみなす。そして主人公は、みずからの想像していたことを「女」に話す。しかしその想像はすでに過去のものではなく、今想像するのだ。村上作品に多用されることば、「考える」だ。「考えなくてはならないことは多すぎる」、「考えるんだ」。作品のなかで、主人公たちは「考え」なければならない。
村上作品はたいへんだ。主人公が「わからない」こと、主人公が「考える」ことに、読みながらつきあっていかなければならないからだ。
主人公がクミコと見なす「女」との会話。
「それがあなたの想像なのね?」
「いくつもの思いつきをひとつに繋げたものだよ」と僕は言った。「僕にはそれを証明することはできない。それが正しいという根拠はなにもないんだ」
ボクは、村上作品の本質がこの会話に表現されていると思ってしまう。
「思いつき」の羅列。
主人公は、この後この「世界」で乱闘し、ケガをする。すると主人公は、なぜか井戸の中にいる自分を発見する。その井戸には、今まで水がなかったのに、水が湧いてきていた。主人公は動けず、死を覚悟する。
ところが彼は救出される。シナモンによってだ。しばらくシナモンはあの「屋敷」にずっと来なくなっていたし(村上風の書き方だ)、主人公が連絡を取ろうと思ってもできなかったのに、なぜ急に出てくるの?そして主人公はケガをしている。その傷を治療したのもシナモンだ。「どちらの傷もシナモンがありあわせの針と糸を使って縫っておいてくれたわ。彼はそういうのがうまいのよ」。シナモンは突然コンピュータが得意となり、またケガの治療もうまいんだ。そう語っているのは、ナツメグ。あれ、ナツメグとも連絡がとれなくなっていたんじゃなかったの?
そしてナツメグは言う、「この屋敷はもうすぐ処分されることになっているの」と。あれれ、この屋敷は、主人公がリースしていたのではなかったの?契約上からみても、ナツメグは「処分」なんかできないはずだ。
そしてクミコから手紙が来た。そこに「彼(クミコの兄)は私たちを汚したのです。正確にいえば肉体的に汚したわけではありません。でも彼はそれ以上に私たちを汚したのです」とある。何これ?このような書き方をあちこちでして、読者を宙づりにするのだ。宙づりにされた読者は、宙づりにされたまま、その後を読まされる。とにかく話は続いているからだ。ひょっとして、その解答がこの後にあるのではないかと思いつつ。だがその解答はない。
矛盾に満ちた小説。しかしところどころにしかけがある。断定を、より断定するしかけ。例えば、「でもバットはどこにも見つからなかった。それは消えていた。完全にあとかたもなく消えていた」。
読者を宙づりにしたまま、どうでもよいようなところで、こうした強い断定を行う。
そして先ほどの「顔のない男」は、「私は虚ろな人間です」というのだ。こういうある種「哲学的」な、あるいは衒学的なことばがあちこちに置かれる。すると読者は、そこに言いしれぬ魅力というか、「深さ」を感じる。
加納クレタ、加納マルタは夢の中でしか登場しないが、夢の中でマルタが子どもを生んだというのだ。名前はコルシカ。そして末尾、主人公は笠原メイにいう、もしクミコとの間に子どもが生まれたらコルシカという名にすると。メイは「素敵な名前じゃない」と答える、滑稽を通り越して、ボクはいい加減にしなさい!といいたくなった。
しかしそれでも村上ファンは、ついていく。村上に何かを感じさせてもらうのだ。感覚でしか、とらえられない世界。
そして多くの評論家たちは、村上を論じる。
この小説第三部、これまた読者を中空に吊り下げているかのような状態。
主人公は、例の「屋敷」にある井戸に入っていく。そこでなぜか区民プールで泳いでいることを思い浮かべると、「べつの暗闇の中」にいく。「壁を抜け」て。そしてどこかの部屋にいる。ホテルのようなところだ。その部屋は208。そこには誰かがいた気配があった。「部屋のドアには208という番号がついていた」のだから、208なのだろう。そしてそこをでる。ロビーに出ようとしたのだ。途中、「泥棒カササギ」の曲を口笛で吹いていたボーイに遭遇する。その後を追っていくと、208。そこは「誰かがいる」。そこは「何か危険なものが潜んでいる」のだそうだ。しかし「壁を抜け」て最初に到達したのは、208だろうが。なぜ「危険」があるのか。主人公は部屋に入るのをやめてロビーに行く。するとテレビでは、クミコの兄がバットで襲われて重傷というニュースを報じている。暴漢は、なぜか主人公とそっくりだ。主人公はロビーから逃げるようにロビーを去る。人が追ってくる。すると「顔のない男」が主人公を助ける。なぜ助けるのか?なんて聞いてはいけない。因果関係なんかない。突然そういう状況が提示される。そして208に入る。そこは「危険な場所」だそうだ。
そこには「女」がいた。主人公は、その「女」をクミコとみなす。そして主人公は、みずからの想像していたことを「女」に話す。しかしその想像はすでに過去のものではなく、今想像するのだ。村上作品に多用されることば、「考える」だ。「考えなくてはならないことは多すぎる」、「考えるんだ」。作品のなかで、主人公たちは「考え」なければならない。
村上作品はたいへんだ。主人公が「わからない」こと、主人公が「考える」ことに、読みながらつきあっていかなければならないからだ。
主人公がクミコと見なす「女」との会話。
「それがあなたの想像なのね?」
「いくつもの思いつきをひとつに繋げたものだよ」と僕は言った。「僕にはそれを証明することはできない。それが正しいという根拠はなにもないんだ」
ボクは、村上作品の本質がこの会話に表現されていると思ってしまう。
「思いつき」の羅列。
主人公は、この後この「世界」で乱闘し、ケガをする。すると主人公は、なぜか井戸の中にいる自分を発見する。その井戸には、今まで水がなかったのに、水が湧いてきていた。主人公は動けず、死を覚悟する。
ところが彼は救出される。シナモンによってだ。しばらくシナモンはあの「屋敷」にずっと来なくなっていたし(村上風の書き方だ)、主人公が連絡を取ろうと思ってもできなかったのに、なぜ急に出てくるの?そして主人公はケガをしている。その傷を治療したのもシナモンだ。「どちらの傷もシナモンがありあわせの針と糸を使って縫っておいてくれたわ。彼はそういうのがうまいのよ」。シナモンは突然コンピュータが得意となり、またケガの治療もうまいんだ。そう語っているのは、ナツメグ。あれ、ナツメグとも連絡がとれなくなっていたんじゃなかったの?
そしてナツメグは言う、「この屋敷はもうすぐ処分されることになっているの」と。あれれ、この屋敷は、主人公がリースしていたのではなかったの?契約上からみても、ナツメグは「処分」なんかできないはずだ。
そしてクミコから手紙が来た。そこに「彼(クミコの兄)は私たちを汚したのです。正確にいえば肉体的に汚したわけではありません。でも彼はそれ以上に私たちを汚したのです」とある。何これ?このような書き方をあちこちでして、読者を宙づりにするのだ。宙づりにされた読者は、宙づりにされたまま、その後を読まされる。とにかく話は続いているからだ。ひょっとして、その解答がこの後にあるのではないかと思いつつ。だがその解答はない。
矛盾に満ちた小説。しかしところどころにしかけがある。断定を、より断定するしかけ。例えば、「でもバットはどこにも見つからなかった。それは消えていた。完全にあとかたもなく消えていた」。
読者を宙づりにしたまま、どうでもよいようなところで、こうした強い断定を行う。
そして先ほどの「顔のない男」は、「私は虚ろな人間です」というのだ。こういうある種「哲学的」な、あるいは衒学的なことばがあちこちに置かれる。すると読者は、そこに言いしれぬ魅力というか、「深さ」を感じる。
加納クレタ、加納マルタは夢の中でしか登場しないが、夢の中でマルタが子どもを生んだというのだ。名前はコルシカ。そして末尾、主人公は笠原メイにいう、もしクミコとの間に子どもが生まれたらコルシカという名にすると。メイは「素敵な名前じゃない」と答える、滑稽を通り越して、ボクはいい加減にしなさい!といいたくなった。
しかしそれでも村上ファンは、ついていく。村上に何かを感じさせてもらうのだ。感覚でしか、とらえられない世界。
そして多くの評論家たちは、村上を論じる。