今日午前中、地元の中学校を訪問した。たいへん荒れているということを聞いていたし(村上春樹的に使ってみた。村上は、以前も指摘したように「・・・いたし、・・・・」を多用する)、ある会議で中学校の保護者の嘆きと怒りを聞いたからだ。別にボクの近親者が中学生ということではない。
今日は、地域の人に学校を開放する日とされているそうだ。行ってみると、保護者や近隣の小学校の校長らが廊下をうろうろしていた。
ボクは、学校の荒れは、その学校の校長が先頭になって取り組んでいかないと良くはならないと思っている。しかしこの学校の校長は、そういう姿勢を持っていないようだ。
さてボクも廊下から子どもたちの姿を見つめた。授業が開始されたばかりだというのに、ある一年生のクラスでは3~4人の子どもが伏せている。廊下を巡視している先生に尋ねたら、この授業担当は強いことが言えないので、他の教員が教室に入って注意するそうだ。もちろんそういう先生については、他の先生が支えるべきであって、そういう先生を責めてはいけない。要するに、荒れを克服するためには、教員の「団結」(もう死語になりつつある?)が欠かせない。
国語の授業を見ていたら、担当の教員が戸を開けて中に導き入れてくれた。ボクは、後ろで伏せている子どもの肩をもみながら、「君はなんで参加しないの」?と尋ねた。「何も持っていないから」という。「紙をもらって黒板に書かれているものを書き写しなよ」と話した。すると先生が紙を持ってきてくれたので、ボクは黒板の最初の文字をその紙に書き、「この後を写しなよ」と言うと、彼は書き始めた。その他に二人参加していない子どもがいた。机の上には何もなかった。
彼らは勉強をしないという姿勢を示すことで、自らの存在をアピールしているのだ。何らかのコミュニュケイトを、教師をはじめとした大人たちがすべきだと思う。大人たちは、そのアピールにとにかく応えるのだ。肩をもんだり、話したり、あるいは叱ったり。
ボクはほぼ1時間の授業時間各教室を廻った。
だが、今日は、パスタをつくらなければならなかった。だから引き上げた。ボクはまた訪問するつもりだ。とにかく勉強してもらわないと、社会はよくならない。