しばらくぶりに村上春樹を読んだ。村上作品の特徴を徐々に知るようになった。主人公が男の場合は、「僕」、女性の場合は「私」。そして「彼は威張らなかったし、自慢もしなかった」というように、「・・し、・・」を多用する。ボクはそういう書き方はしない。そして会話によるストーリーの運びは、あまり多くはない。
それに「わからない」という語も多用されている。また主人公は多くの女性と「寝る」し(ちょっと使ってみた)、女性が主人公の存在そのものを支える、という構図がしばしばあった。
それでもって、物語は荒唐無稽、奇想天外なものがおおい。
以前にも指摘したが、奇想天外の暗喩が使われる。しかし、暗喩そのものが目的化されているような気がする。
さて、この作品集には、「パン屋再襲撃」、「象の消滅」、「ファミリー・アフェア」、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「眠り」、「トニー滝谷」、「人喰い猫」などが収載されている。
「ファミリー・アフェア」はフツーの小説。「トニー滝谷」もそれに近い。あとは奇想天外の部分を必ず含むのだが、思わせぶりの小説群のような気がしてしまう。
ことばというものは、どういうものでも表現できてしまうものでもある。ありえないことでも、まことしやかに描くことができてしまう。村上の才能というのは、そういうところにあるのだろう。
ではそこに、何らかの「意味」を持たせながら、村上は作品を書いているのだろうか。ボクは、おそらくそうではないと思うのだ。読者が、それらの作品を、ある意味で「勝手に」解釈していく、村上は自由に、あまり意味なんか考えないで書いていく。「解釈はどうぞご勝手に・・」である。
なぜか人は、難解そうなものが自分の前に立ちはだかると、意味を考えなければならないと思ってしまうようなのだ。ボクは読んだことがないけれども、村上作品を解釈した本が多数出版されている。ボクは絶対にそうした本は読まないが、そういう本が出されるほど、村上作品を解釈しようという人が多いということだ。
村上作品は、現実に足を持たない、空中に浮かんだままにしておく、そういう世界だ。人は、なんで空中に浮かんだままなんだ、などと騒ぐのだ。
ボクから言わせれば、村上作品は「遊び」である。奥田英朗の小説のほうが、もっともっと真剣だ、それも現実に対して。その真剣さを、若い人は知らないし、敬遠する。
それに「わからない」という語も多用されている。また主人公は多くの女性と「寝る」し(ちょっと使ってみた)、女性が主人公の存在そのものを支える、という構図がしばしばあった。
それでもって、物語は荒唐無稽、奇想天外なものがおおい。
以前にも指摘したが、奇想天外の暗喩が使われる。しかし、暗喩そのものが目的化されているような気がする。
さて、この作品集には、「パン屋再襲撃」、「象の消滅」、「ファミリー・アフェア」、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」、「眠り」、「トニー滝谷」、「人喰い猫」などが収載されている。
「ファミリー・アフェア」はフツーの小説。「トニー滝谷」もそれに近い。あとは奇想天外の部分を必ず含むのだが、思わせぶりの小説群のような気がしてしまう。
ことばというものは、どういうものでも表現できてしまうものでもある。ありえないことでも、まことしやかに描くことができてしまう。村上の才能というのは、そういうところにあるのだろう。
ではそこに、何らかの「意味」を持たせながら、村上は作品を書いているのだろうか。ボクは、おそらくそうではないと思うのだ。読者が、それらの作品を、ある意味で「勝手に」解釈していく、村上は自由に、あまり意味なんか考えないで書いていく。「解釈はどうぞご勝手に・・」である。
なぜか人は、難解そうなものが自分の前に立ちはだかると、意味を考えなければならないと思ってしまうようなのだ。ボクは読んだことがないけれども、村上作品を解釈した本が多数出版されている。ボクは絶対にそうした本は読まないが、そういう本が出されるほど、村上作品を解釈しようという人が多いということだ。
村上作品は、現実に足を持たない、空中に浮かんだままにしておく、そういう世界だ。人は、なんで空中に浮かんだままなんだ、などと騒ぐのだ。
ボクから言わせれば、村上作品は「遊び」である。奥田英朗の小説のほうが、もっともっと真剣だ、それも現実に対して。その真剣さを、若い人は知らないし、敬遠する。