今日静岡へ行った。ボクは静岡へ行く時、新幹線には乗らない。約1時間をかけて静岡に行く。本を読み、時に窓から空を見た。焼津辺だったか、空に「めがね雲」があった。「めがね雲」という名の雲があるかどうかは知らない。でも、顔のかたちの雲に、黒いレンズのような丸が二つ並んでいた。雲はぽっかりと浮かび、ユーモラスな表情を浮かべていた。
さて、村上の『ねじまき鳥クロニクル』を読み始めた。読めば読むほど、村上の作品は「遊び」だなと思う。ボクらが生きる現実とはクロスしない。ちょうど中空に浮かぶキャンバスに、抽象画というほどのものではないが、一部具象的、一部抽象的な絵画が描かれているという感じなのだ。
ボクはやはり村上の作品は、「浅い」と思う。ことばが伝えるだけのことがことばで綴られている(ただし、あたかもそうではないような、つまりことば以上のものを語っているかのような記述がなされる「思わせぶり」なところもある)。よくドストエフスキーの名が、村上作品にでてくるが、ドストエフスキーの作品は重厚だ。使われていることばの背後に、ものすごい重厚な思考が隠されている。だからそれぞれの「場面」に、作者のどのような意図があるのかを深く考えようとする。次々と繰り出されることば、ことばを、ボクたちはなおざりにはできないのだ。
そしてドストエフスキーの作品のストーリーの展開は、ある意味で「必然的」なのだ。
しかし、村上のそれは必然性の展開になっていない。たとえば、主人公クミコの兄、綿谷ノボルの著書に「性的経済と排泄的経済」ということばがつかわれているとされ、そしてこれが「その年の流行語になった」とされるのだ。このことばは、ストーリーの展開の必然性の中にあるのか。ひょっとしてこれが後の話の展開に重要なこととして出てくるのかもしれないが、しかしこのダーティなことば。ボクは、村上の品性を疑うのだ。
また主人公が夢を見る。その夢は、「加納クレタ」というアホみたいな名の女性とのオーラルセックスなのだ。そして主人公は「夢精」する。これがストーリーの展開の中で、必要な物語なのか。
その「加納クレタ」は「娼婦」であったことも記されている。
村上は、セックスがとても好きだ。実際のセックスではない。物語の中に、頻繁にセックスに関する物語を入れてくる。ただその記述には、いやらしさはまったくない。その点ではこれ(いやらしさを感じさせない性描写)も一つの才能だろうと思う。
ボクは、ふと思うのだ。村上作品の読者は、セックスにはあまり縁のない人なのではないか。村上作品はある種のカタルシス?
ボクはYさんが良いという『ねじまき鳥クロニクル』を読み続けるが、しかし村上作品より、奥田英朗の作品のほうが良いとボクは思う。
村上作品は、現実との葛藤を避けているために高評価なのだろうと思う。
さて、村上の『ねじまき鳥クロニクル』を読み始めた。読めば読むほど、村上の作品は「遊び」だなと思う。ボクらが生きる現実とはクロスしない。ちょうど中空に浮かぶキャンバスに、抽象画というほどのものではないが、一部具象的、一部抽象的な絵画が描かれているという感じなのだ。
ボクはやはり村上の作品は、「浅い」と思う。ことばが伝えるだけのことがことばで綴られている(ただし、あたかもそうではないような、つまりことば以上のものを語っているかのような記述がなされる「思わせぶり」なところもある)。よくドストエフスキーの名が、村上作品にでてくるが、ドストエフスキーの作品は重厚だ。使われていることばの背後に、ものすごい重厚な思考が隠されている。だからそれぞれの「場面」に、作者のどのような意図があるのかを深く考えようとする。次々と繰り出されることば、ことばを、ボクたちはなおざりにはできないのだ。
そしてドストエフスキーの作品のストーリーの展開は、ある意味で「必然的」なのだ。
しかし、村上のそれは必然性の展開になっていない。たとえば、主人公クミコの兄、綿谷ノボルの著書に「性的経済と排泄的経済」ということばがつかわれているとされ、そしてこれが「その年の流行語になった」とされるのだ。このことばは、ストーリーの展開の必然性の中にあるのか。ひょっとしてこれが後の話の展開に重要なこととして出てくるのかもしれないが、しかしこのダーティなことば。ボクは、村上の品性を疑うのだ。
また主人公が夢を見る。その夢は、「加納クレタ」というアホみたいな名の女性とのオーラルセックスなのだ。そして主人公は「夢精」する。これがストーリーの展開の中で、必要な物語なのか。
その「加納クレタ」は「娼婦」であったことも記されている。
村上は、セックスがとても好きだ。実際のセックスではない。物語の中に、頻繁にセックスに関する物語を入れてくる。ただその記述には、いやらしさはまったくない。その点ではこれ(いやらしさを感じさせない性描写)も一つの才能だろうと思う。
ボクは、ふと思うのだ。村上作品の読者は、セックスにはあまり縁のない人なのではないか。村上作品はある種のカタルシス?
ボクはYさんが良いという『ねじまき鳥クロニクル』を読み続けるが、しかし村上作品より、奥田英朗の作品のほうが良いとボクは思う。
村上作品は、現実との葛藤を避けているために高評価なのだろうと思う。