『海辺のカフカ』を読み終わった。新潮文庫の二冊もの。読み終えて、またまたなぜ人が村上春樹の小説に焦がれるのか、まったくわからない。そうわからない。
上巻まではついていったが、下巻にはいってからは、まったく荒唐無稽の世界。まずカーネル・サンダーズの出現はなんだ。そして星野くんに女子大生をあてがってセックスさせる、そこになんの必然性があるのだ。
上巻の最後のあたりに「海辺のカフカ」の歌詞が載せられている。この小説は、まさにこれが象徴する。
あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。(以下略)
村上春樹は、たとえば「あなたが世界の縁にいるとき」、「私は死んだ火口にいて」、「ドアのかげに立っているのは」、「文字をなくした言葉」というような、まったく脈絡のない語、あるいは文を並べておく、そしてそれを何とかして、無理をしてつなげていく。そのためには何をつかってもいい、幽霊でもいいし、死の世界でもいいし、猫と話してもいいし、何でもよい。そのように小説を組み立てているのではないかと思う。そしてあちこちに、何か哲学的な、あるいは文学的な意味深長なことばや文を散りばめる。いやもう一つ、重要なセックスを絡めなければならない。
そうすると、読んでいる人は、きわめて意味深い小説を読んでいて、村上のメタファーが理解できないのは私のせいだ、などと思いながら、とにかく読み進める。そしてわけのわからない荒唐無稽の世界を漂流し終わって、たぶん分かった気になる。たぶん。
もちろん、村上は何事かをほのめかしているわけではない。読者が勝手に読み解こうと努力するのだ。だがそれは無駄な試みだ。
ボクは読んでいて、クラシック音楽についての記述なんか、なるほどと思う。ところどころにわけが分かるところも必要だ。だって、そうでなければ最後までよんでくれないじゃないか。
ボクは、主人公のカフカ君が深い深い森の中にいるのに、「僕は激しい砂嵐の中にひとりで立っている」という記述に唖然とした。
話の展開にその小説世界の上での必然性が感じられないことが多すぎる。
ほんとうになぜかわからない。
しかしボクはついに『1Q84』を、次に読むだろう。
上巻まではついていったが、下巻にはいってからは、まったく荒唐無稽の世界。まずカーネル・サンダーズの出現はなんだ。そして星野くんに女子大生をあてがってセックスさせる、そこになんの必然性があるのだ。
上巻の最後のあたりに「海辺のカフカ」の歌詞が載せられている。この小説は、まさにこれが象徴する。
あなたが世界の縁にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉。(以下略)
村上春樹は、たとえば「あなたが世界の縁にいるとき」、「私は死んだ火口にいて」、「ドアのかげに立っているのは」、「文字をなくした言葉」というような、まったく脈絡のない語、あるいは文を並べておく、そしてそれを何とかして、無理をしてつなげていく。そのためには何をつかってもいい、幽霊でもいいし、死の世界でもいいし、猫と話してもいいし、何でもよい。そのように小説を組み立てているのではないかと思う。そしてあちこちに、何か哲学的な、あるいは文学的な意味深長なことばや文を散りばめる。いやもう一つ、重要なセックスを絡めなければならない。
そうすると、読んでいる人は、きわめて意味深い小説を読んでいて、村上のメタファーが理解できないのは私のせいだ、などと思いながら、とにかく読み進める。そしてわけのわからない荒唐無稽の世界を漂流し終わって、たぶん分かった気になる。たぶん。
もちろん、村上は何事かをほのめかしているわけではない。読者が勝手に読み解こうと努力するのだ。だがそれは無駄な試みだ。
ボクは読んでいて、クラシック音楽についての記述なんか、なるほどと思う。ところどころにわけが分かるところも必要だ。だって、そうでなければ最後までよんでくれないじゃないか。
ボクは、主人公のカフカ君が深い深い森の中にいるのに、「僕は激しい砂嵐の中にひとりで立っている」という記述に唖然とした。
話の展開にその小説世界の上での必然性が感じられないことが多すぎる。
ほんとうになぜかわからない。
しかしボクはついに『1Q84』を、次に読むだろう。