ボクは村上作品をまったく良いとは思わないし、その価値も認められない。しかし、村上作品のなかに書き込まれる音楽の話は、とても良い。
まさに、この本では、小澤征爾という世界的な指揮者との、クラシック音楽についての、とてもとても興味深い話が飽くことなく続けられる。
村上は、文にリズムがないといけない、という。リズムがなく、平板な文は、読み続けることができないという。その通りだ。村上作品は荒唐無稽で、その荒唐無稽さに腹立たしくなることもあるが、それでも読み終えてしまう。そういわれてみれば、村上作品にはリズムがある。バックで、音楽が鳴っているような感じもする。
ボクはこの本を読み、内田光子というピアニストの演奏をユウチューブで聴き、村上や小沢が話すことに同意し、まだ聴いたことのない演奏家の演奏を何とか聴いてみなければならないと思ったりした。
今は、マーラーの交響曲6番を聴きながらこれを書いているが、ボクは実は文を書くとき、音楽を流しながら書く。どういう文をどういう人に向けて書くかをもとに、聴く音楽を変える。
感情を思い切り書き込まなければならないとき、それもとても哀しく・・・というときは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第2楽章を聴く。
そしてこのマーラー、今第1楽章だけど、リズムがビシビシっと刻まれる箇所があり、それがボクの体を揺らす。そのリズムに合わせて、キーを叩くのだ。
今日、この本を借りてきた。しかし・・・・
5月中旬の安倍政権についての講演、6月はじめから10回連続の歴史講座、6月下旬の労働組合の研修会での講演、7月の研究会での報告、その途中、足尾銅山への旅行。旅行そのものは準備はいらないが、それ以外のものは準備が必要だ。
講演などでアウトプットするためには、大量のインプットが必要だ。インプットされた情報がボクの頭の中でスパークして、新たな想念が湧いてくるのだ。何らかの知的触発を喚起する話をするためには、莫大な整理された情報と、そのうえに出現するオリジナリティが求められる。
今、それに関する本やコピーの整理をしなければならないのに、この本を読み終えないと手が着かない。それほど面白い本だ。
文を書くことを仕事にしようというあなた、音楽を聴きなさい。
まさに、この本では、小澤征爾という世界的な指揮者との、クラシック音楽についての、とてもとても興味深い話が飽くことなく続けられる。
村上は、文にリズムがないといけない、という。リズムがなく、平板な文は、読み続けることができないという。その通りだ。村上作品は荒唐無稽で、その荒唐無稽さに腹立たしくなることもあるが、それでも読み終えてしまう。そういわれてみれば、村上作品にはリズムがある。バックで、音楽が鳴っているような感じもする。
ボクはこの本を読み、内田光子というピアニストの演奏をユウチューブで聴き、村上や小沢が話すことに同意し、まだ聴いたことのない演奏家の演奏を何とか聴いてみなければならないと思ったりした。
今は、マーラーの交響曲6番を聴きながらこれを書いているが、ボクは実は文を書くとき、音楽を流しながら書く。どういう文をどういう人に向けて書くかをもとに、聴く音楽を変える。
感情を思い切り書き込まなければならないとき、それもとても哀しく・・・というときは、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第2楽章を聴く。
そしてこのマーラー、今第1楽章だけど、リズムがビシビシっと刻まれる箇所があり、それがボクの体を揺らす。そのリズムに合わせて、キーを叩くのだ。
今日、この本を借りてきた。しかし・・・・
5月中旬の安倍政権についての講演、6月はじめから10回連続の歴史講座、6月下旬の労働組合の研修会での講演、7月の研究会での報告、その途中、足尾銅山への旅行。旅行そのものは準備はいらないが、それ以外のものは準備が必要だ。
講演などでアウトプットするためには、大量のインプットが必要だ。インプットされた情報がボクの頭の中でスパークして、新たな想念が湧いてくるのだ。何らかの知的触発を喚起する話をするためには、莫大な整理された情報と、そのうえに出現するオリジナリティが求められる。
今、それに関する本やコピーの整理をしなければならないのに、この本を読み終えないと手が着かない。それほど面白い本だ。
文を書くことを仕事にしようというあなた、音楽を聴きなさい。