先日、高校生に「人間の尊厳」について話そうとした。フランクルの『夜と霧』をもとにして話そうと思っていたのだ。
ところが、高校生はヒトラーを知らない。もちろんアウシュヴィッツ収容所も知らない。「聞いたことある?」と尋ねても、首を振るばかり。知っていたのはたったひとり。
そうなると、フランクルに至るまでの説明を延々としなければならない。
いつの頃か、当然知っていると思って話していたら、全然知っていなかった。ボクの話す声は空間に即消え去っていたのだ。それがわかったのは、もうかなり前。高校生の脳から日本人共通の「知」が消えていることは、ボクも知っていたはずなのに。わかってもらうためには、詳しい説明が必要だ。「神は細部に宿り給う」である。
日本人が当然脳に刻印しておかなければならない「知」が、昔はあった。たとえばヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸。だから話は案外通じたのだ。
ところが、今若者と話していて、話が通じないことがよくある。なぜなのか。
中学校は高校への受験教育の場、普通高校は大学受験教育の場。職業高校は、部活動に専念する場。今や、「知」は、学校にはないのだ。
受験に必要な「知識」は、合格するために一時的に記憶にとどめておけばよいもの。試験が終われば、消してしまう。ヒロシマ、ナガサキも、若者にとって「知」ではなく「知識」。
「知識」のなかに「知」があること、「知識」には軽重があること、そういうことをまず若者に理解させなくてはならない。
だが今や、無知が跋扈している時代。首相も、「無知」のうえに政治を行っている。それで平気なのだ。だって誰もとがめないのだから。
いや、今日の『中日新聞』の特報欄は、憲法九六条に関する首相(自民党)の「無知」をわかりやすく説明している。だけど、あの人たちに理解できるかな?
ところが、高校生はヒトラーを知らない。もちろんアウシュヴィッツ収容所も知らない。「聞いたことある?」と尋ねても、首を振るばかり。知っていたのはたったひとり。
そうなると、フランクルに至るまでの説明を延々としなければならない。
いつの頃か、当然知っていると思って話していたら、全然知っていなかった。ボクの話す声は空間に即消え去っていたのだ。それがわかったのは、もうかなり前。高校生の脳から日本人共通の「知」が消えていることは、ボクも知っていたはずなのに。わかってもらうためには、詳しい説明が必要だ。「神は細部に宿り給う」である。
日本人が当然脳に刻印しておかなければならない「知」が、昔はあった。たとえばヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸。だから話は案外通じたのだ。
ところが、今若者と話していて、話が通じないことがよくある。なぜなのか。
中学校は高校への受験教育の場、普通高校は大学受験教育の場。職業高校は、部活動に専念する場。今や、「知」は、学校にはないのだ。
受験に必要な「知識」は、合格するために一時的に記憶にとどめておけばよいもの。試験が終われば、消してしまう。ヒロシマ、ナガサキも、若者にとって「知」ではなく「知識」。
「知識」のなかに「知」があること、「知識」には軽重があること、そういうことをまず若者に理解させなくてはならない。
だが今や、無知が跋扈している時代。首相も、「無知」のうえに政治を行っている。それで平気なのだ。だって誰もとがめないのだから。
いや、今日の『中日新聞』の特報欄は、憲法九六条に関する首相(自民党)の「無知」をわかりやすく説明している。だけど、あの人たちに理解できるかな?