浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】梯久美子『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)

2013-04-30 22:46:58 | 日記
 人間には、タテ関係を基本にする人と、ヨコ関係を基本にする人とがある。前者は、「上」の者にはへつらい、「下」の者に対しては傲慢に振る舞う。後者は、たとえ自分自身が高い地位についても、決して他人を蔑むようなことはしない。

 軍人の多くは、前者の価値観をもつ。いや、そういう価値観を持った人は、周辺にもどっさりいる。彼らは「立身出世」を求め、そのために「上」の者に対して、必要以上にへりくだり、また付け届けをする。彼らの価値観は、何が何でも「上」をめざし、同じ価値観をもつ者が自分に対して振る舞ったように、自分も同じように振る舞いたいのだ。

 栗林忠道は、硫黄島というもう逃げ場のない、死ぬことだけが求められた戦場で、その戦場の持つ意味を考え、それにもとづく作戦をたてて実行し、そして戦死した。それも総指揮官としてではなく、ほかの日本兵と同じような戦死を選んで。

 良い本だ。軍人の中にも、尊敬できる者がいる。栗林はそのひとりである。

 栗林は、もちろん後者の人間である。軍隊内の立場は最上級ではあっても、決して偉ぶることはなく、人間観の根底には人間皆同じ、という平等感を育んでいた。この本を読むと、そういう姿が随所に見られる。


 だが、こういう人は、生き残れないんだ。東京の安全なところで、アーダコーダと机上の空論を闘わせるような奴だけが生き残るのだ。善意は、悪意には勝てない。悪意は狡猾なのだ。善意は素直すぎるのだ。悪意は人間を信じない。善意は、容易に人を信じてしまう。だから、善意は負けてしまうのだ。

 悪意がはびこると、多くの人びとの生命や生活が奪われる。

 「実質を伴わぬ弥縫策を繰り返し、行き詰まってにっちもさっちもいかなくなったら「見込みなし」として放棄する大本営。その結果、見捨てられた戦場では、効果が少ないと知りながらバンザイ突撃で兵士たちが死んでいく。将軍は腹を切る。・・・その死を玉砕という美しい名で呼び、見通しの誤りと作戦の無謀を「美学」で覆い隠す欺瞞」(229頁)と梯氏は指摘する。その「欺瞞」を許せなかった栗林は、戦闘方法を考え抜き、そして最期に死を強制した者たちへの抗議の意思を込めた「訣別電報」を発した。

 “散るぞ悲しき”

 ボクはずっと昔、サイパン島の玉砕について、研究したことがある。まさに玉砕は、悲しい。サイパン玉砕をうたった詩がある。石垣りんの「崖」である。

    戦争の終わり、
    サイパン島の崖の上から
    次々に身を投げた女たち。


    美徳やら義理やら体裁やら
    何やら。
    火だの男だのに追いつめられて。

    とばなければならないからとびこんだ。
    ゆき場のないゆき場所。
    (崖はいつも女をまっさかさまにする)


    それがねぇ
    まだ一人も海にとどかないのだ。
    十五年もたつというのに
    どうしたんだろう。
    あの、
    女。

 玉砕のなかで死を迎えざるを得なかった兵士たちの魂も、「ゆき場」なく、さまよっているのではないか。戦後、日本人はその「ゆき場」をつくってこなかった。きちんと総括し、責任ある者の責任を問おうとしてこなかった。

 栗林忠道と硫黄島の兵士たちを、死に追いやった者たちの責任が、何も問われていない。あたかも、フクシマ原発事故の責任を誰もがとっていないように。 

 
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過去を否定すること

2013-04-30 15:38:17 | 日記
 過去に起きたことは、どのように隠そうとしても隠すことはできない。事実は事実として、消えないからである。

 かつて日本軍という国家の軍隊は、その戦争の中で多くの女性を騙し、強制的に連行し、兵士たちの性的処理の相手を強制的にさせていた。「従軍慰安婦」といわれるが、軍事的性奴隷制を日本軍はその属性として持っていた。

 しかしこの事実は、あまりにも犯罪的であり、あまりにも人道に反しているが故に、日本政府はそれを認めようとしなかった。しかしその被害者がたくさん名乗り出て、また公式の文書も発見されて、日本政府も認めざるを得なくなった。それが「河野談話」であった。1993年のことであった。

 ところが、この日本国家の犯罪を認めたくない人びとがいた。それ以降も、「従軍慰安婦」はねつ造であるとか、私娼であったとか、勇気を持ってみずからの体験を公にした被害者たちに、さらに追い打ちをかけるように辱めている。

 私も、この問題について、いくつかの本を読んでいる。吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書)、『戦争責任研究』という季刊誌の資料や論文など、あるいは軍人の回想録など。

 現実に起きたことを否定することはできない。このような事実について、正確に調査し、謝罪し、補償し、そしてそのようなことを日本国家はしない、という決意を示す。それがもっともあるべき責任のとり方である。

 しかし、そういう事実があったことを、すでに政府も認めたにもかかわらず、今なお政府関係者などが否定しようとしている。

 私はほんとうにバカだと思う。謝罪し、補償し、日本の歴史のなかに反省すべき痛恨の事実として位置づける、そうすれば、日本は過去の忌まわしい事実を正視し、きちんと反省できる道義的な国家であると認められるであろう。だが、性懲りもなく、否定発言を繰り返せば、この問題は、国際的にも周知の事実となってるのだから、いつまでたってもこの問題は歴史にならない。

 今日、峯岸賢太郎『皇軍慰安所とおんなたち』(吉川弘文館)を読んだ。安倍首相自らがその否定派の人間だからだ。もういちどこの問題をきちんと認識しておかなければならないと思ったからだ。

 読んでいて、本当に陰惨な被害体験が記されている。彼女たちの人生を根底から狂わせたわけだから、当然謝罪と補償はなされなければならない。事実を事実として、どんな知りたくない、見たくないものであっても、直視することは必要だ。

 この問題について、吉見さんの岩波新書か、この本を読んで欲しいと思う。

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生命力

2013-04-30 13:51:58 | 日記
 日曜日、NHKの「日曜美術館」をみた。仙台博物館で行われている美術展の紹介番組であった。

 アメリカ人のプライスさんが蒐集してきた日本の絵画が里帰りをしているとのこと。3月末に仙台に行こうとしたとき、事前の調査で知ってはいたが、ちょうど月曜日で休館日であったので、行かなかったのだが・・・

 テレビ画面に紹介された絵をずっと見ていたが、なんと素晴らしい絵画が揃っている!と思わざるを得なかった。東日本大震災をアメリカで見つめていたプライス夫妻が、被災地の人びとに蒐集した作品を見せたいと思った、という理由が、ほんとうによく分かったのだ。

 というのも、蒐集された江戸絵画のほとんどが、生命へのエネルギーに満ちていたからだ。

 絵画は、若冲をはじめ、たくさんの画家によって描かれたものだ。そして、人間はもとより、動物、植物など多彩なものが描かれている。

 だが、それらの作品に共通しているものは、生命力、生きるエネルギー、生きようとするエネルギーを凝縮したものであるということだ。

 描かれた動植物は、画家によって切り取られ、抽象され、想像されたものだろう。だが画家たちは、描かれているものの、それぞれの生を肯定し、その生命力を描いている。 
 
 若冲の「鳥獣花木図屏風」なんて、もう生命の賛歌としか言いようがないものだ。

 ところでこの展覧会、「若冲が来てくれました プライスコレクション江戸絵画の美と生命」という名である。生命、つまり生きているということは、美しいのだ。生きているから色があり、それが美につながっていく。

 この展覧会、今のところ観に行くことはできない、せめて図録だけでも買おうと思って仙台博物館にアクセスしたら、アマゾンで買えると知ってすぐに注文した。2625円であった。

 今日、図録が届いた。

 絵画は実物と図録の写真とでは大きく異なる。実物からは、エネルギーというか光がでている。ずっと昔、ゴヤの絵の実物を見て、写真とは異なる輝きを感じた。

 今回は、図録(写真)でガマンしよう。絵それ自体に生命力が描かれているのだから。


http://jakuchu.exhn.jp/


 
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