戦後静岡の社会運動を調べている。
1968年から70年代初めにかけての富士川町(2008年、富士市に合併)住民の、東京電力富士川火力発電反対運動などに関する闘いの記録である。著者の芦川照江さんは、別名小川アンナ、反対運動の中核にあった。ふつうの住民として、ふつうの感覚(公害はいや!)から、火力発電反対闘争に関わった。闘いの軌跡とそのなかで感じたこと、学んだことが、印象的に記されている。
労働組合運動とは質の異なる、住民の個の自覚に立った運動のありかたが論じられていて、現時点でも参考になる本である。
大衆運動とは一人一人の心を切り取って整理してしまわないことなのだろう。愚直と気長とが一方の杖である。(94)
公害の戦いというのは、むしろ組合とか企業とかではなくて、裸になって人間として公害の問題を考えうる人でなければ戦えないことなんだ。・・・日本における民主化というようなものが一人ひとりにおいてはたしてどれだけ理解され本物であったかを問いなおしてみたかった。われもわれもと労働組合に入って組合い員として行動しているが一人ひとりが民主主義というものをどれだけ身につけているか、個というものをもっと考えなければいけないんじゃないか(199)
この本に収録されている「運動のなかの私ー個について」は、現在の運動においても読み返されるものであると思う。これについては、別に記す。
過去の本でも、今も生きる本があるが、本書はその一冊である。
1968年から70年代初めにかけての富士川町(2008年、富士市に合併)住民の、東京電力富士川火力発電反対運動などに関する闘いの記録である。著者の芦川照江さんは、別名小川アンナ、反対運動の中核にあった。ふつうの住民として、ふつうの感覚(公害はいや!)から、火力発電反対闘争に関わった。闘いの軌跡とそのなかで感じたこと、学んだことが、印象的に記されている。
労働組合運動とは質の異なる、住民の個の自覚に立った運動のありかたが論じられていて、現時点でも参考になる本である。
大衆運動とは一人一人の心を切り取って整理してしまわないことなのだろう。愚直と気長とが一方の杖である。(94)
公害の戦いというのは、むしろ組合とか企業とかではなくて、裸になって人間として公害の問題を考えうる人でなければ戦えないことなんだ。・・・日本における民主化というようなものが一人ひとりにおいてはたしてどれだけ理解され本物であったかを問いなおしてみたかった。われもわれもと労働組合に入って組合い員として行動しているが一人ひとりが民主主義というものをどれだけ身につけているか、個というものをもっと考えなければいけないんじゃないか(199)
この本に収録されている「運動のなかの私ー個について」は、現在の運動においても読み返されるものであると思う。これについては、別に記す。
過去の本でも、今も生きる本があるが、本書はその一冊である。