今日、『世界』12月号を購入した。特集は「報道崩壊」である。『朝日新聞』のある種の腰砕け(後退)を契機とした、激しいメディアバッシングが吹き荒れた。それに対してメディア関係者がどれほど闘うか。闘いしか、みずからの権利の地歩を確保し前進させることはできない。そういう自覚を持って、「報道崩壊」を食い止めて欲しいと思う。
とくに朝日新聞社が発行している『Journalism』は、『朝日新聞』紙上での「慰安婦」問題や「吉田調書」の誤報問題に関して振り返るべきである。もちろんその場合、朝日新聞社の方針に沿ったものではなく、ジャーナリズムの視点からの検証でなければならない。
Tさん、この問題に関する特集を組むべきです。
さて、この問題に関しては、別の機会にまた書こうと思うが、今回は内橋克人氏による宇沢弘文氏のいわば追悼文について記す。時の流れは、「戦後民主主義」を支えてきた人々を黄泉の国に次々と運んで行ってしまう。とても、とても残念である。ボクらには、しかし、その人々の書き残したものをしっかりと学びとることが求められている。
内橋氏が引用している宇沢氏の文ー
経済学は優れて実践的な面を持つ。経済学者がなにゆえ、経済学に関心を持ち、経済学の研究を一生の仕事としようと決意するのかというと、貧困と分配の問題にその原点を持つことが多い。なにゆえ、ある一つの社会あるいは国のなかで、同じ人間でありながら、一方では貧困に苦しみ、その日その日の食糧にすら不自由する人々が大ぜい存在するとともに、他方では、暖衣飽食、贅沢に飽くことを知らない人々が存在するのであろうか。
このような宇沢氏の問題関心は、「宇沢経済学」をつくりだしてきた。そして『自動車の社会的費用』(岩波新書)を記し、水俣病や成田空港問題などに取り組んでこられた。「社会的共通資本」という概念は、そうした様々な具体的な問題に関わりながらつくりだしてきた、きわめて有効な概念である。
だが、近年の政治経済政策は、内橋氏がいうようにそれを否定する「公共の企業化」が無際限に進んでいる。
宇沢氏など、「戦後民主主義」がうちたててきた最良のものが崩されようとしているとき、ボクらはそれを押しとどめながら、それをより発展させていかなければならないのだろう。
ボクらに求められていることは、学び、学び、考え、考え、そして、行動する、ということだ。ぼーっとしてはいられない。
とくに朝日新聞社が発行している『Journalism』は、『朝日新聞』紙上での「慰安婦」問題や「吉田調書」の誤報問題に関して振り返るべきである。もちろんその場合、朝日新聞社の方針に沿ったものではなく、ジャーナリズムの視点からの検証でなければならない。
Tさん、この問題に関する特集を組むべきです。
さて、この問題に関しては、別の機会にまた書こうと思うが、今回は内橋克人氏による宇沢弘文氏のいわば追悼文について記す。時の流れは、「戦後民主主義」を支えてきた人々を黄泉の国に次々と運んで行ってしまう。とても、とても残念である。ボクらには、しかし、その人々の書き残したものをしっかりと学びとることが求められている。
内橋氏が引用している宇沢氏の文ー
経済学は優れて実践的な面を持つ。経済学者がなにゆえ、経済学に関心を持ち、経済学の研究を一生の仕事としようと決意するのかというと、貧困と分配の問題にその原点を持つことが多い。なにゆえ、ある一つの社会あるいは国のなかで、同じ人間でありながら、一方では貧困に苦しみ、その日その日の食糧にすら不自由する人々が大ぜい存在するとともに、他方では、暖衣飽食、贅沢に飽くことを知らない人々が存在するのであろうか。
このような宇沢氏の問題関心は、「宇沢経済学」をつくりだしてきた。そして『自動車の社会的費用』(岩波新書)を記し、水俣病や成田空港問題などに取り組んでこられた。「社会的共通資本」という概念は、そうした様々な具体的な問題に関わりながらつくりだしてきた、きわめて有効な概念である。
だが、近年の政治経済政策は、内橋氏がいうようにそれを否定する「公共の企業化」が無際限に進んでいる。
宇沢氏など、「戦後民主主義」がうちたててきた最良のものが崩されようとしているとき、ボクらはそれを押しとどめながら、それをより発展させていかなければならないのだろう。
ボクらに求められていることは、学び、学び、考え、考え、そして、行動する、ということだ。ぼーっとしてはいられない。