浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

疲れた・・・・

2014-11-10 21:47:03 | 日記
 畑仲間から、寒くなる前にサツマイモを掘り出しなさいといわれ、午後2時半頃から暗くなるまで掘り続けた。とてもとても疲れた。農業というのも、生き物を相手にするから、あまり手を抜くことはできない。水や肥料をあげなければいけない。

 今日は、立派なブロッコリーも収穫。小松菜やほうれん草も順調に育っている。野菜を育てるためには、愛情豊かに接することが必要なのだ。

 さて、こう疲れると、本を読もうという気が起こらない。そこで、パソコンの前に行き、you tubeで音楽を聴く。最初はチャイコフスキーのピアノコンチェルトを聴いていたが、今は岡林信康。

 ボクは昔から彼の「友よ」という曲が好きで、最初の子どもに「ともよ」という名をつけたほどだ。

 彼の歌を聴きながら、当時のボクは明るい未来を何とはなしに思い浮かべていたものだが、今は、「どうしてこんな社会になってしまったのか」と思わざるを得ない日々。

 岡林の歌は、政治や社会をより良くしていこうという勢いがあった時代を象徴している。
そういう時代が、ボクが生きている間に甦ってくるだろうか。
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小選挙区制

2014-11-10 08:11:03 | 政治
 小渕経産相のカネの問題で、世襲議員の安直さが報道されている。そして世襲議員の多さの背景に小選挙区制があるとする論者もいる。

 『中日新聞』の11月6日の「特報欄」は、「衆院4人に1人、世襲の悪弊 政治とカネの原因?」であった。そしてその末尾にはこうある。

政治評論家の浅川博忠氏は「世襲議員は家業のように職を継ぎ、安直に当選できるため、たたき上げと比べ、国のために何かをなそうという意思が希薄」と指摘。選挙制度を改革するしかないと説く。「三バンを引き継ぎやすい小選挙区制では、ますますたたき上げが減ってしまう。世襲を一概に否定はしないが、自民党が複数候補を立てにくい定員三人程度の中選挙区制にして、もっとたたき上げに道を開くべきだ」

 小選挙区制に問題があることは、導入前からわかっていたことだ。しかしすべてのメディアは、小選挙区制を導入するべきだ、それに反対する者は「守旧派」であるなどとその導入に全力を尽くしていた。今になって、メディアの中から小選挙区制の弊害が指摘されるが、そんなことは導入前からわかっていたことだ。

 『中日新聞』も含めて、小選挙区制導入時に、自分たちがどのような報道をしたのかを検証するべきである。日本は、どんなことであっても、ひとつの大きな流れができてしまうと(ボクの言う「時流」)、メディアのほとんどが(学者ですらも・・・)右にならえしてしまう。小選挙区制にいかに大きな問題があるのかを指摘していたメディアはほんとにほんとに少なかった。

 現在の政治の「悪」の多くは、さらには社会の「閉塞」は、小選挙区制がつくりだしたものである。メディアは、小選挙区制の問題点を積極的にとりあげて、キャンペーンでもうつべきである。みずからの報道を検証するとともにそうしたキャンペーンをすることは急務ではないか。

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社会のありかた

2014-11-10 01:22:25 | その他
 今までもたくさんの本を読んできた。そこからたくさんの養分を吸収して生きてきたつもりであるが、まだまだ足りない。知らない世界も多い。知らない世界も知らないままに死んでいくわけにはいかない、といつも思う。たとえば、このまえ小村雪岱の絵を見に行ったが、彼は泉鏡花の本の装丁などもおこなっている。昔の本の装丁は、みごとな美術品だという感動を覚えつつ、しかしボクは泉鏡花を一冊も読んだことがない。

 そして今日『世界』12月号、そのなかの最上敏樹氏による「坂本義和先生を追悼する」「「醒めた規範的リアリズム」に寄せて」という文を読んだ。高校時代からずっと購読している『世界』には、坂本義和氏が書いた論文が載っていた。だからボクの平和への志向に、坂本氏の論考は、顕現はしていないが奥底で栄養となっていることだろう。

 しかしボクは、坂本氏の『人間と国家』(岩波新書)を読んでいなかった。この本をすぐに読まなければと思う。というのも、そこには人権の尊重という「理性的な観念」の基礎としての「他者の尊厳に対する感性」の共有について書かれていることを知ったからだ。
 
 これは先日、聖隷歴史資料館にいって、M牧師らと語り合ったことだったから。

 ボクは「人間の尊厳」という抽象的なことばの具体的な意味を、「夜明け前のこどもたち」という「重度心身障害児」を描いた映画で知った。それは学生時代のことだった。
 先日帰宅して「夜明け前の子どもたち」が撮影されたびわこ学園のホームページにアクセスしたら、その映画がDVDになっているという。ボクはそれを買うつもりだ。「どんぐりの家」という、これまた障がいをもった子どもの親たちの苦闘と未来を描いた漫画・アニメも、「人間の尊厳」とはいかなることかを描いている。

 坂本氏の書いたものに、

 「人間がある国なり社会なりに生まれ落ちたという事実は、人間としての本質的平等性を変えるものではない」

 という文があるそうだが、それはまたいかなる障がいをもって生まれてこようとも「人間としての本質的平等性を変えるものではない」ということへも拡大しなければならないと思う。

 自らの責任がないことにより貧困や苦痛を与えられるということはあってはならない。
 坂本氏は「脱犠牲者化」を唱えたという。「種々の不条理な犠牲者を世界からなくしていくこと」だそうだが、ずっと前、哲学者の市井三郎氏もそうしたことを指摘されていた。

 こうした「知」をみずからのものにしながら、そうした「知」を物質化していく=現実化していく努力が求められる。

 坂本氏も「戦後民主主義」の最良の担い手の一人である。ボクたちはそうした人々の「知」を受け継いでいかなければならない。
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