浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【映画】「戦争と一人の女」

2014-11-30 23:32:02 | 日記
 「あいときぼうのまち」、映画終了時に、脚本を書いた井上淳一氏がぜひパンフレットを購入して欲しいと訴えた。あまりに観客が少ないので、申し訳ないと思って購入した。ついでに舞台挨拶をした4人にサインをもらった。

 家に帰ってそれを読んだら、井上氏は「戦争と一人の女」という映画を監督したとあった。ネットでさがしてみたら、なんとその映画が見られることに気づき、早速アクセス(下記)。

 実は、陰惨な映画だ。日本がおこなった戦争の本質がはっきりと描かれていた。井上氏は、若松孝二監督の弟子のようだ。なるほどと思った。何の妥協もせずに、ストレートに戦争の本質に迫っていく。

 ボクは最後まで真剣に見続けた。

https://www.youtube.com/watch?v=lilyx4_M66k

 なお、原作は坂口安吾。

 井上監督のインタビューは下記。

https://www.youtube.com/watch?v=UwVJfFeI5vU
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【映画】 「あいときぼうのまち」

2014-11-30 23:30:36 | 社会
 大文字の歴史が、まるでブルドーザーのように、家族、そして一人一人の人生に襲いかかりなぎ倒していく。戦争、原発の建設、そして原発事故。そのブルドーザーは、すなわち国家である。

http://www.u-picc.com/aitokibou/#prettyPhoto/0/

 ある家族。父が戦死。戦時下、母と息子(草野英雄)が母のふるさと、福島へ帰る。福島県石川町は、戦時中、「新型爆弾」の原料を調達すべく、学徒動員により採掘作業が行われていた。英雄は、その作業に従事する。そしてその仕事を担当した軍人と母とができてしまう。
 戦争が終わり、母は自殺する。

 1960年代半ば、福島に原発をつくろうという話がもちあがり、土地の買収が進む。しかし、英雄は売ろうとしない。回りから様々な圧力がかかり、また妻も離れていってしまう。英雄は、戦時下の思い出をこころにしまいながら生きてきた。その思い出とは、国家は信用できないということだ。
 結局、英雄も土地を売る。同時に、福島の海で自殺する。
 英雄には中学生の娘(愛子)がいた。愛子には交換日記をする彼(奥村健次)がいた。奥村は、「原発は未来のエネルギー」という標語をつくる。父を亡くした愛子は健次に体を投げ出す、しかし健次との関係はここで途切れる。
 愛子が上京したからだ。その後の人生は詳しく紹介されないが、社会派の人間として愛子は生き、その過程で学生運動をしていた男性と知り合い結婚(西山姓となる)、そしてお婆さんとなる。その西山家は南相馬市に住む。

 健次はその後東京電力で働く。40年間だという。ふつうに結婚し、そして息子ができるが、息子は原発で働き、そしてそのせいで死ぬ。息子は、自らの死を明らかにするために裁判を起こして欲しいというが、健次はそうしない。息子より東電を優先する健次に愛想を尽かした妻は去る。

 愛子は、フェイスブックで、健次の所在を知る。そして再会する。愛子と健次は、過去を懐かしむように、身体の関係を結ぶ。孫の高校生・西山怜(ホルンを得意とするふつうの高校生だ)はそれを知ってしまう。
 2011年3月11日、愛子と健次は、中学生の頃に結ばれた福島の海岸を訪れる。その跡をつけた怜は、健次の車のキーを抜き、それを放り投げる。
 地震、そして津波。愛子は還らぬ人となる。怜は、自分が祖母・愛子を殺したと思ってしまう。

 南相馬市から東京に避難した怜は、体を売ったりする生活に入る。しかしそのなかで、福島に義援金をと、義援金詐欺をしている男・沢田と出会う。
沢田の運転で、福島の海に行く。そして放射性物質がこびりついている枯れ葉を、怜はもってくる。そして東京のビルの屋上からそれをまこうとするが、沢田がそれを止め、沢田がそれをまく。空から降ってきた枯れ葉を、幼児が拾う。

 沢田と怜は、警察へ。怜は、警察から解放され自宅へ。そこで、怜は、祖母愛子が他人を助けるなかでいのちを落としたことを知る。

 怜は、福島の海を訪れ、ホルンを奏でる。その音色が、時空を超えて響きわたる。

 以上がストーリーだ。

 ふつうに日々を生きている家族に、国家が戦争という災いを引き起こし、それにより家族が引き裂かれる。家族は、そうした歴史を背負う。その歴史は世代を超えて伝えられていく。するとまた、原発の建設により、家族は引き裂かれる。
 そして3・11。

 ボクたちは、大文字の歴史が、そうした家族のささやかな歴史を引き裂くという、無数の歴史を想起することができる。そうした無数の歴史が、日本のどこにでも転がってるからだ。そしてそれは、今につながっているのである。

 しかし、いい加減に、そうした大文字の歴史が、ささやかな家族や個人の歴史をなぎ倒していくということは、なくしていかなければならない。

 今日の映画、シネマイーラで今日一回だけの上映だった。見ていたのは、10人くらい。そこへ,脚本を書いた井上純一と俳優3人が挨拶をした。あまりに観客が少なくて、申し訳ないとおもった。

 原発事故の映画は、観客数が伸びないという。これからもこの映画は、あちこちで上映されるだろう。ぜひ見て欲しい。見るべき映画だ。

 ボクは歴史の無情と、そして怒りを覚えた。忘れてはならない、福島の原発事故。
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思想史のために(1)

2014-11-30 09:27:10 | 日記
 人々は日々何ごとかを思い、考えながら生きている。それは広義でいったらそれも思想ではある。しかし、それは時間とともに移ろい、ある場合は消えていく。したがって、それは思想史の対象とはならない。

 思想史の対象となるものは、表出された、あるまとまった思考の結果である。その場合、すでに書かれたものがもっともその対象となりやすい。

 しかし、書かれたものをすべて対象とするべきではない。今度はその思想の内実が問題となる。つまりいかなる思想を取り上げるべきかということだ。

 しばしば記していることだが、一般庶民は「時流」に呑まれる傾向が強い。坂口安吾がいう「時代的感情」である。「きわめて雰囲気的な、そこに論理的な根底はまったく希薄な」「ぬきさしならぬ感情的な思考」(『日本論』241)である。そういう「時流」や「時代的感情」を析出することも、思想史の対象である。そしてそれはきわめて重要であって、「個を没入せしめ」(前掲書、208)、個を何らかの行動に駆り立てる、その「時流」や「時代的感情」は当該期の歴史を明示するためには必要な作業である。

 他方、注目すべきは、そうした「時代的感情」や「時流」に対して違和感を持ち、それらを相対化する思想も重要である。そうした思想は、次の時代の思潮を準備するものであろうし、当該期の「時代的感情」や「時流」を逆により鮮明にするものであろう。

 そこで今ボクが注目しているのが、坂口安吾である。彼の『日本論』を読んだのは、そのためである。とくに彼がする天皇制への言及は、天皇制の本質を垣間見せ、あるいは天皇制を相対化するものとなっている。敗戦直後、未だ庶民が天皇制の呪縛に「没入」しているとき、安吾は天皇制の本質にせまる思考を開陳している。

 ボクの友人には反天皇制の思考を強固に持ち続けている人がいるが、自分だけがそういう思考をもつのではなく、どちらかというと庶民の近くにいた文学者が、どういうように天皇制をみつめていたかを析出することは、天皇制を相対化する一歩になり得るのではないか。
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