会話の中で、自分自身がいかに立派な人間であるかをアピールする人がいる。その人が立派な人間であるかどうかは、そのひとがどのようなことを考え、どのような動きをしているかで判断される。判断するのは自分ではない。判断するのは他者であって、他者はそれらを聞いたり、見たり、読んだりするなかで立派な人間であるかどうかを判断するのである。
したがって、その人自身は、アピールする必要はまったくない。
ボクが仲良くしている人たちは、ボクに対して自分がいかに立派な仕事をしているかをアピールなんかしない。ボクはその人たちが、立派な業績をもち、また尊敬できる行動をしていることを、直接その人から聞いたりしなくても、十分に認識している。「能ある鷹は爪を隠す」ということばがあるが、立派な人は皆そうであるし、とても謙虚である。「自分は偉いんだ」などというアピールなんかまったくしない。ボクの如きふつうの人間に対しても、ふつうに接してくれる。
ところがいろいろな社会のなかに出て行くと、ボクに対していかに自分自身が偉いかを知らしめようとする人に出会うことがある。
その人たちは、聞いてもいないのに、みずからの仕事や業績を語る、あるいは業績あるその分野での有名人といかに仲良く交際しているかを語る、あるいは自分が由緒ある家庭の出身であることを語る・・・・
残念ながら、ボクはそういう話に興味関心はまったくないのだ。なぜか。そんなことを聞いても、会話によって双方が知的な面で、あるいは人間的な面で、何の益もないからだ。同時に、ボクの最大の関心は、この社会をどう良くしていくかであるからだ。
知的あるいは人格的に自らを向上させる話、今まで知らなかったことを知ること、現在の社会のあり方をどうするかを議論すること・・・・・会話はすべからくそういうものにしたい。
したがって、その人自身は、アピールする必要はまったくない。
ボクが仲良くしている人たちは、ボクに対して自分がいかに立派な仕事をしているかをアピールなんかしない。ボクはその人たちが、立派な業績をもち、また尊敬できる行動をしていることを、直接その人から聞いたりしなくても、十分に認識している。「能ある鷹は爪を隠す」ということばがあるが、立派な人は皆そうであるし、とても謙虚である。「自分は偉いんだ」などというアピールなんかまったくしない。ボクの如きふつうの人間に対しても、ふつうに接してくれる。
ところがいろいろな社会のなかに出て行くと、ボクに対していかに自分自身が偉いかを知らしめようとする人に出会うことがある。
その人たちは、聞いてもいないのに、みずからの仕事や業績を語る、あるいは業績あるその分野での有名人といかに仲良く交際しているかを語る、あるいは自分が由緒ある家庭の出身であることを語る・・・・
残念ながら、ボクはそういう話に興味関心はまったくないのだ。なぜか。そんなことを聞いても、会話によって双方が知的な面で、あるいは人間的な面で、何の益もないからだ。同時に、ボクの最大の関心は、この社会をどう良くしていくかであるからだ。
知的あるいは人格的に自らを向上させる話、今まで知らなかったことを知ること、現在の社会のあり方をどうするかを議論すること・・・・・会話はすべからくそういうものにしたい。