浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

ふと・・・・・

2014-11-26 21:20:23 | 日記
 昨日、今日は雨だった。「晴耕雨読」の日々をおくるボクは、この二日間は「雨読」で時を刻む。『芸術新潮』を読み、“阿弥陀如来座像”と対面して仏教を思い、依頼された仕事の校正を二つばかり済ませ、A4一枚の政治評論を書き、そして線香を焚く。

 その一方で、坂口安吾を読む。『日本論』(河出文庫)、1989年刊行のものである。実はこの本、読むのはおそらく三度目だ。坂口安吾の小説は好きではないが、彼の評論は読む度に新たな発見をする。

 たとえば「魂の孤独」(159頁)なんてことばに遭遇する。すると、「魂の孤独」を想う。「魂の孤独」を心の底から実感したのは思春期だ。その後も時に頭をもたげたりしたが、最近はとんと想うこともない。「魂の孤独」はなくなったのか。安吾は、こういう。

 魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。

 だが振り返ってみると、「魂の孤独」を感じていた頃のほうが、魂は豊穣であったし、創造的であったような気がする。
 この年になると、感じなくなるのだろうか。

 そういえば、この前テレビで高倉健主演の“あなたへ”を見た。妻を亡くした男一人、妻の遺骨を散骨するために平戸へ行くというものだ。高倉健の映画にまとわりつく「孤独」が漂っていた。

 どのような「孤独」であっても、もし「孤独」を感じてしまったら、人間は生きていかざるを得ないから、それに耐えていくしかない。

 かくて、文学者が書いたものを読むと、いろいろ考えさせられるのだ。
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作善

2014-11-26 14:40:33 | 日記
 先祖が眠る寺は曹洞宗の小さな寺院である。子どもの頃、檀家が少なかったからか、その寺は無住となった。
 そこで檀家総代が近隣の寺の住職に葬祭などの世話を依頼した。しかしその住職は、仏の世界より、現世におけるカネが最大の価値だとして、檀家からカネをせびり続けた。
 只管打坐という曹洞宗ではあるが、江戸時代からカネ儲けに長けていたようだ。だから、曹洞宗とは無縁でいたいと思い続けている。

 さて町田の住人の菩提寺は、浄土真宗だそうだ。「南無阿弥陀仏」を唱えれば浄土に行けると言い続けている。「悪人」であっても念仏さえ唱えれば往生できるのだから、と善を積むことはしなくてもよいのだという。

 『芸術新潮』の12月号が届いた。特集は修理が終わった平等院鳳凰堂である。その解説を読んでいたら、こういう記述があった。教えてあげなければならないと思った。仏教の教えは、親鸞の説だけではないからだ。

 ひと口に極楽往生と言っても『観無量寿経』では9つの段階に分けられており、上品上生が最上位。以下、上品中生、上品下生、中品上生・・・と順位が下がり、最下位がが下品下生となります。もちろん、良い行いをした者ほどランクが高く、罪深い者ほどランクが下がる。

 やはり「作善」をして、極楽往生にむけてポイントを稼いでいかなければならないのだという。

 鳳凰堂には、大仏師定朝の「阿弥陀如来座像」がある。阿弥陀如来は極楽浄土に住まい、自らを信じるあらゆる人を救済されるという。

 しかし、ボクは、生きとし生けるものは、無から生じ、そして無へと消えていくと思っている。
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