昨日、今日は雨だった。「晴耕雨読」の日々をおくるボクは、この二日間は「雨読」で時を刻む。『芸術新潮』を読み、“阿弥陀如来座像”と対面して仏教を思い、依頼された仕事の校正を二つばかり済ませ、A4一枚の政治評論を書き、そして線香を焚く。
その一方で、坂口安吾を読む。『日本論』(河出文庫)、1989年刊行のものである。実はこの本、読むのはおそらく三度目だ。坂口安吾の小説は好きではないが、彼の評論は読む度に新たな発見をする。
たとえば「魂の孤独」(159頁)なんてことばに遭遇する。すると、「魂の孤独」を想う。「魂の孤独」を心の底から実感したのは思春期だ。その後も時に頭をもたげたりしたが、最近はとんと想うこともない。「魂の孤独」はなくなったのか。安吾は、こういう。
魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。
だが振り返ってみると、「魂の孤独」を感じていた頃のほうが、魂は豊穣であったし、創造的であったような気がする。
この年になると、感じなくなるのだろうか。
そういえば、この前テレビで高倉健主演の“あなたへ”を見た。妻を亡くした男一人、妻の遺骨を散骨するために平戸へ行くというものだ。高倉健の映画にまとわりつく「孤独」が漂っていた。
どのような「孤独」であっても、もし「孤独」を感じてしまったら、人間は生きていかざるを得ないから、それに耐えていくしかない。
かくて、文学者が書いたものを読むと、いろいろ考えさせられるのだ。
その一方で、坂口安吾を読む。『日本論』(河出文庫)、1989年刊行のものである。実はこの本、読むのはおそらく三度目だ。坂口安吾の小説は好きではないが、彼の評論は読む度に新たな発見をする。
たとえば「魂の孤独」(159頁)なんてことばに遭遇する。すると、「魂の孤独」を想う。「魂の孤独」を心の底から実感したのは思春期だ。その後も時に頭をもたげたりしたが、最近はとんと想うこともない。「魂の孤独」はなくなったのか。安吾は、こういう。
魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。
だが振り返ってみると、「魂の孤独」を感じていた頃のほうが、魂は豊穣であったし、創造的であったような気がする。
この年になると、感じなくなるのだろうか。
そういえば、この前テレビで高倉健主演の“あなたへ”を見た。妻を亡くした男一人、妻の遺骨を散骨するために平戸へ行くというものだ。高倉健の映画にまとわりつく「孤独」が漂っていた。
どのような「孤独」であっても、もし「孤独」を感じてしまったら、人間は生きていかざるを得ないから、それに耐えていくしかない。
かくて、文学者が書いたものを読むと、いろいろ考えさせられるのだ。