学生時代、ドストエフスキーの小説を読みあさった。そのなかに『虐げられた人々』があった。今はどのような話だかほとんど忘れてしまったが、しかしこの「虐げられた人々」ということばは、ずっと生き続けている。
今日、障がいをもった方々の医療センターに行った。月一回のボランティアでの歴史講座で話すためだった。そこでいつも思うことは、障がいをもった子どもを連れた母親の姿が多いということだ。今日あった手すりを伝いながら歩いている子ども、その母親には疲れがみられた。
『ドングリの家』という漫画を読んでいるから、あるいは『夜明けまえの子どもたち』という重度心身障がいの子どもの映画をみているから、親の大変さが想像できる。
親たちが苦労しないで、この子どもたちが幸せに生きられる社会があればいい。
今日ボクが話したこと。
今の安倍政権が「変革」しようとしている方向は、戦争を日常化する「帝国」である。「帝国」というのは、アメリカという国家に見られるように、自国の利益のために、戦争したり、武器を輸出したり、他国の政権を転覆したり・・・そういう反人道的、反倫理的なことを平気でやる国である。
そういう「帝国」に生まれ育つと、ふつうの人々が、「帝国」の戦争政策の担い手として、したくなくても、殺戮や破壊に手を貸すようになる。その例として、「大日本帝国」の時代に生まれた青年たちが、戦場や植民地でいかなることをしたのかを、史実にもとづいて話した。
そこでボクは、そういうことをした青年たちひとりひとりの責任を追及することはしない、もし責任を追及するとしたら、当時もっとも責任ある政治指導者であると同時に、その時代に生きていた大人たちだと話した。
そのことばは、逆に現在の私たちに返ってくる。「帝国」に進もうという安倍政権を阻止できるかどうか、現在その重大な岐路にあることを指摘した。
歴史や社会をみるとき、どのような視点から見、考えるのか、その視点は「虐げられた人々」からでないといけないと話した。「虐げられた人々」が「虐げられる」ことがなくなる社会、それはボクらが幸せに生きられる社会でなのである。