『現代思想』1月号、新田啓子「わたしは予期していた」に、考えさせられることが記されていた。
アメリカには、アフリカ系の、つまり黒人系の学生に支給される奨学金が数多く存在するという。それは、今までの歴史の中で差別を受けてきた人びとに対する学習「機会の調整」のためである。
ところが、その奨学金は、アメリカ生まれの黒人たちにはほとんど支給されず、支給されるのは、アフリカやカリブ海地方からの留学生であるというのだ。なぜか。アメリカ生まれの黒人生徒には、SAT(大学入学基礎学力テスト)で点数がとれないからである。アフリカやカリブから来る学生たちは、英才教育を受けるために早い段階でアメリカにやってきているから、当然高得点となる。アメリカでの大学の授業料は、年間300万円、奨学金を得られなければ大学進学は不可能である。つまり、奨学金は、本来支給されなければならない黒人生徒にはわたっていないのだ。そしてアフリカなどからアメリカに来る若者は、当然その地方での富裕層の子弟である。
新田はこう記す。
実力主義という、理論上は合理的な奨学金システムが、本来ならばあまり援助を必要としていない裕福な人びとに金を流失させている。しかもそれは外国人だ。そのために、奨学金をもっとも必要としている子供は、その機会を得られないまま、潜在的な能力の芽を出す可能性も封じられる。しかもその果てに待っているのは、現代アメリカ社会における最悪の人種コース、すなわち、おもに黒人男性を飲み込む「収監格差」に足を取られ、落伍のスパイラルに嵌まっていくという顛末である。
差別を克服するためにもうけられている奨学金制度を利用しているのが、外国からの富裕者の子弟であるというこの矛盾。
そしてトランプを勝利させたのは、「支援や承認を要する層に反感を抱く人間と、その必要は自覚しつつも、私利や既得権益保守の誘惑に抗えず、だからこそ彼に投票したと公言できない人間たち」であると指摘する。
トランプを勝利させた人びとは、「利権」、「戦争」、「愚かなリーダー」には「寛容」だが、差別され、貧しき人びとへのある種の「厚遇」には、不寛容なのだ。
考えてみれば、そういう人は、日本にもいっぱいいる。そういう時代なのだ。
アメリカには、アフリカ系の、つまり黒人系の学生に支給される奨学金が数多く存在するという。それは、今までの歴史の中で差別を受けてきた人びとに対する学習「機会の調整」のためである。
ところが、その奨学金は、アメリカ生まれの黒人たちにはほとんど支給されず、支給されるのは、アフリカやカリブ海地方からの留学生であるというのだ。なぜか。アメリカ生まれの黒人生徒には、SAT(大学入学基礎学力テスト)で点数がとれないからである。アフリカやカリブから来る学生たちは、英才教育を受けるために早い段階でアメリカにやってきているから、当然高得点となる。アメリカでの大学の授業料は、年間300万円、奨学金を得られなければ大学進学は不可能である。つまり、奨学金は、本来支給されなければならない黒人生徒にはわたっていないのだ。そしてアフリカなどからアメリカに来る若者は、当然その地方での富裕層の子弟である。
新田はこう記す。
実力主義という、理論上は合理的な奨学金システムが、本来ならばあまり援助を必要としていない裕福な人びとに金を流失させている。しかもそれは外国人だ。そのために、奨学金をもっとも必要としている子供は、その機会を得られないまま、潜在的な能力の芽を出す可能性も封じられる。しかもその果てに待っているのは、現代アメリカ社会における最悪の人種コース、すなわち、おもに黒人男性を飲み込む「収監格差」に足を取られ、落伍のスパイラルに嵌まっていくという顛末である。
差別を克服するためにもうけられている奨学金制度を利用しているのが、外国からの富裕者の子弟であるというこの矛盾。
そしてトランプを勝利させたのは、「支援や承認を要する層に反感を抱く人間と、その必要は自覚しつつも、私利や既得権益保守の誘惑に抗えず、だからこそ彼に投票したと公言できない人間たち」であると指摘する。
トランプを勝利させた人びとは、「利権」、「戦争」、「愚かなリーダー」には「寛容」だが、差別され、貧しき人びとへのある種の「厚遇」には、不寛容なのだ。
考えてみれば、そういう人は、日本にもいっぱいいる。そういう時代なのだ。