日本政府は、「明治150年」の記念事業の中で、「明治の精神」を学ぶ、ということを言っている。その場合の「明治の精神」とは、近代国家建設を思想的に牽引したナショナリズム、資本主義、国家主義、侵略主義、差別主義などであろう。そういうものを肯定的に学ばせようとするのである。「明治」を光で覆い尽くそうとするのだ。
しかし、私たちは1910年に大逆事件がおきたことを知っている。まさにでっち上げの事件である。これにより多くの有為の人物が、国家により虐殺された。明治国家は、虐殺された彼らがもっていた自由、平等、友愛などを求める精神を破砕したのである。
「明治150年」では、彼らの精神は一顧だにされないだろう。だからこそ、私たちは、「明治」という時代に踏みにじられた思想を「明治の精神」として歴史の中からとりだしていかなければならない。それはいまもって虐殺された幸徳らの冤罪を冤罪として国家に認めさせることにつながる。
今、私は田中伸尚の『大逆事件 死と生の群像』(岩波書店)を読み直している。事件がでっちあげられ、次々と検挙されていく過程をみるとき、私は現在国会に上程されている「共謀罪」について考えざるをえない。
まさに「明治天皇の爆殺」という「大逆」を、共謀もしていないのに、共謀したとして逮捕され、そして死刑台へと送られたのだ。その「共謀」は、明治国家がでっちあげた「共謀」であり、証拠も何もありはしない。しかし、明治国家は、それでも突っ走った。
今、安倍政権が成立させようとしている共謀罪は、そうしたことを可能にさせる法案である。
抗するために、過去の事実をひろいあげ、それを語らなければならない。
日本政府、安倍政権が是とする「明治の精神」がいかなるものであるか、そして「明治」の時代が、どういう精神を踏み潰したのか。それを明らかにする中で、「明治150年」のイデオロギーを根底から批判していく、そうした作業が求められている。
しかし、私たちは1910年に大逆事件がおきたことを知っている。まさにでっち上げの事件である。これにより多くの有為の人物が、国家により虐殺された。明治国家は、虐殺された彼らがもっていた自由、平等、友愛などを求める精神を破砕したのである。
「明治150年」では、彼らの精神は一顧だにされないだろう。だからこそ、私たちは、「明治」という時代に踏みにじられた思想を「明治の精神」として歴史の中からとりだしていかなければならない。それはいまもって虐殺された幸徳らの冤罪を冤罪として国家に認めさせることにつながる。
今、私は田中伸尚の『大逆事件 死と生の群像』(岩波書店)を読み直している。事件がでっちあげられ、次々と検挙されていく過程をみるとき、私は現在国会に上程されている「共謀罪」について考えざるをえない。
まさに「明治天皇の爆殺」という「大逆」を、共謀もしていないのに、共謀したとして逮捕され、そして死刑台へと送られたのだ。その「共謀」は、明治国家がでっちあげた「共謀」であり、証拠も何もありはしない。しかし、明治国家は、それでも突っ走った。
今、安倍政権が成立させようとしている共謀罪は、そうしたことを可能にさせる法案である。
抗するために、過去の事実をひろいあげ、それを語らなければならない。
日本政府、安倍政権が是とする「明治の精神」がいかなるものであるか、そして「明治」の時代が、どういう精神を踏み潰したのか。それを明らかにする中で、「明治150年」のイデオロギーを根底から批判していく、そうした作業が求められている。