2017年を迎えた。いったいどのような年になるのか。もう長い間、新しい年が来ても、明るい未来を構想することができなくなっている。「こんな時代がくるとは思わなかった」という気持ちが続いている。私の若い頃は、明るい未来が広がっているように思えたのだが。
今朝、早起きして天竜川の堤防に、初日の出を見に行った。すでに光を十分に発しあたりを明るくさせているその太陽が頭を出したとき、あまりの光の強さに目をとめることができなかった。あまりに明るすぎる、ぎらぎらと睥睨するかのような日の出であった。
明るい未来ではなく、目を開けていられないほどの未来がやってくるのかと思うほどであった。しかし、いくらそういう状態であっても、目を開け続けなければならない。私たちを取り巻く世界は POST TRUTH、真実なんて糞食らえ、という時代に入っている。私たちが依拠すべきは、真実である。世界が真実を糊塗し、足蹴にしようとも、真実こそが最終的には、私たちの味方であるはずだ。真実を伝え続ける、それが私たちの武器である。
問題は、その真実をどう伝えていくか、またその真実をより多くの人々に伝えていくためには、どうすればよいか、である。
今日、本が届いた。『増補学び舎中学歴史教科書 ともに学ぶ人間の歴史』(学び舎)である。私は毎月一回某所で行っている歴史講座で、このテキストをもとに日本の歴史を語ろうと思ったのだ。
本書は、現職あるいはもと教員たちが書いたものだ。検定を通って、中学校でも使われている。その発行部数は、とうてい採算に乗る数ではない。しかしこういうよい教科書はなくしてはならない。それを支援するためにもと思い購入した。2400円+悪税である。
日本政府が、また「明治」という時代を美化する事業を企てている(明治150年)。支配層にとって、「大日本帝国」の時代は、誇るべき歴史であるのだ。しかし、「大日本帝国」は、私が常に指摘しているように、初発から侵略と植民地支配を不可欠の要素として、構造的に組み入れた国家であった。そういう国家を美化させてはならないのである。
今年から歴史、とりわけ近代史をめぐっての思想闘争が起こってくる。そうした「大日本帝国」の時代を経験し、その痛恨の体験を胸に刻んで戦後歴史学を担ってきた人々が、昨年も他界していった。その志を継ぐ者こそが、その思想闘争に参加しなければならない。
その思想闘争は、同時にPOST TRUTHとの闘いでもある。そのために、今年も学び続けなければならない。
今朝、早起きして天竜川の堤防に、初日の出を見に行った。すでに光を十分に発しあたりを明るくさせているその太陽が頭を出したとき、あまりの光の強さに目をとめることができなかった。あまりに明るすぎる、ぎらぎらと睥睨するかのような日の出であった。
明るい未来ではなく、目を開けていられないほどの未来がやってくるのかと思うほどであった。しかし、いくらそういう状態であっても、目を開け続けなければならない。私たちを取り巻く世界は POST TRUTH、真実なんて糞食らえ、という時代に入っている。私たちが依拠すべきは、真実である。世界が真実を糊塗し、足蹴にしようとも、真実こそが最終的には、私たちの味方であるはずだ。真実を伝え続ける、それが私たちの武器である。
問題は、その真実をどう伝えていくか、またその真実をより多くの人々に伝えていくためには、どうすればよいか、である。
今日、本が届いた。『増補学び舎中学歴史教科書 ともに学ぶ人間の歴史』(学び舎)である。私は毎月一回某所で行っている歴史講座で、このテキストをもとに日本の歴史を語ろうと思ったのだ。
本書は、現職あるいはもと教員たちが書いたものだ。検定を通って、中学校でも使われている。その発行部数は、とうてい採算に乗る数ではない。しかしこういうよい教科書はなくしてはならない。それを支援するためにもと思い購入した。2400円+悪税である。
日本政府が、また「明治」という時代を美化する事業を企てている(明治150年)。支配層にとって、「大日本帝国」の時代は、誇るべき歴史であるのだ。しかし、「大日本帝国」は、私が常に指摘しているように、初発から侵略と植民地支配を不可欠の要素として、構造的に組み入れた国家であった。そういう国家を美化させてはならないのである。
今年から歴史、とりわけ近代史をめぐっての思想闘争が起こってくる。そうした「大日本帝国」の時代を経験し、その痛恨の体験を胸に刻んで戦後歴史学を担ってきた人々が、昨年も他界していった。その志を継ぐ者こそが、その思想闘争に参加しなければならない。
その思想闘争は、同時にPOST TRUTHとの闘いでもある。そのために、今年も学び続けなければならない。