浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

森友学園と安倍首相

2017-04-04 21:52:36 | その他
 こういう記事がある。「昭恵夫人「主人も時間があれば幼稚園に来たいと言っている」 講演動画が公開」

https://www.buzzfeed.com/kotahatachi/what-is-mizuhonokuni32?utm_term=.rhlLoxmV3#.nwrYQ3BO7

 そしてアキエリークスのサイト。

https://akie-leaks.com/
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もう一つ

2017-04-04 21:25:53 | その他
 鶴見俊輔の本からの引用(51頁)。反戦?それとも好戦?


 「戦争が始って良かったね」

 大人たちのつぶやきは

 子供のぼくらの耳にも入った。



 やがて戦争で殺されるぼくらのー



 ことばは、たとえ短くても、本質をずばりと描くことができる。
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森友事件に関わる国会議事録の行方

2017-04-04 21:16:33 | その他
 おかしなことが国会で起きているようだ。


http://buzzap.jp/news/20170404-moritomo-minutes-lost/
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モリナガ出身の首相夫人と官僚

2017-04-04 21:09:38 | その他
 官僚が、モリナガ出身の首相夫人に付きっきり。自民党の選挙運動でも・・・

http://lite-ra.com/2017/04/post-3046.html
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森永という会社のこと

2017-04-04 20:47:21 | その他
 首相夫人の昭恵という人は、森永という会社の社長「令嬢」だという。

 森永というと、私は森永ヒ素ミルク事件を思い出す。私の遠い記憶の中には、モリナガの製品は買わないようにしようというものがある。だから今も買わない。

 ※ちなみに雪印も買わない。雪印の創業者はあの田中正造と関係がある方だ。しかし、食中毒事件を起こし、会社は公式に謝罪をしたが、裁判ではみずからの罪を認めずに争っていた。だから私は買わない。

 森永乳業がつくった粉ミルクにヒ素が混入し、多くの子どもをヒ素中毒にした。

 安倍昭恵の問題が生じたので、いつかNHKのETV特集で放映されたドキュメンタリーを見せてもらった。

 事件が起きてから60年ほどが経過した。障害をもった子どもたちはすでに還暦を過ぎている。その親たちも高齢となったり、あるいは亡くなられている。

 この60年間という時間。こういう事件を引き起こした企業は存続しているが、事件の被害者は、子どもだけでなくその家族も筆舌に尽くしがたい苦難の道を歩んできたことと思う。被害者に対して、森永乳業は恒久的な補償をしているというが、彼らの人生を元に戻すことはできない。

 一度でもこういう事件を引き起こした企業は、まことに罪作りである。

 このドキュメンタリーの中で、被害者の石川さんは、「記憶」ということをしきりに強調されていた。こういう事件があったということを、記憶というかたちで残したい、という強い希望が表明された。

 私たちも、この事件を忘れない、伝えていくということをしなければならないと思う。石川さんは、石川さん自身が事件を表現しながら生きている。その意志をみずからのものにしたいとおもう。



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ことばの可能性

2017-04-04 18:24:12 | その他
 鶴見俊輔の『身ぶりとしての抵抗』を読みながら、考える時を過ごしている。そのひとつ。詩が紹介されていた。

 私は、この詩を読んだとき、しばらくそこで佇んでしまった。佇むという表現はおかしいかもしれないが、とにかく私はその詩に捕らわれて動けなくなってしまったのだ。

 闇の中にも目をひらいていたいと思う

 人はたいてい

 目をつむる

 眠る


 だが

 このしずけさの中にこそある

 闇の声に

 わたしは耳をすましたい


 
 志樹逸馬というもとハンセン病患者が書いたものだ。「闇」という表題がついている。

 闇、目、つむる、眠る、しずけさ、声、耳をすます・・・すべてこれらは私がもつ語彙のなかにあるものだ。しかし、この人がこれらの語彙を並べると、ひとつの世界が生み出される。そしてこの詩の世界は、無限の彼方に広がっていく。

 私は、この詩に、ことばの可能性をみた。使い慣れたことばであっても、ことばは無限の可能性をもつのだ、と。 
 
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文科省の本質

2017-04-04 13:39:15 | その他
 「教育勅語」を教材として使用してもよいようなことを文部大臣が言っている。安倍政権では、「教育勅語」を復活させたい面々が揃っているから、否定しないように、さりとて声高に肯定するわけにもいかず、わけのわからないことをもぐもぐ言っている。『毎日新聞』のこの記事は、きちんと説明しているが、文科省は、戦後においても、「教育勅語」に郷愁を抱き、あわよくば復活させたいと思っていたはずだ。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170404-00000000-mai-pol

 というのも、家永教科書裁判で明らかになっていたが、文科省は教科書検定において、「大日本帝国」時代の価値観を復活させようと腐心してきた。だから、もちろん反対の声をあげなければならないのであるが、文科省の姿勢は一貫してるということだ。

 今「教育勅語」の復権に対して、この『毎日新聞』記事のように批判することは当然であるが、過去の文科省のそうした動きを点検することも必要ではないか。
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美しいことばは・・・・

2017-04-04 07:58:51 | その他
 昨日、鶴見俊輔の美しいことばを紹介した。それは「わたしのなかの根拠」というかたちで、編集者によってまとめられた文章の中にあったものだ。まさにそこには、鶴見の抵抗するときの根拠が示されている。それは同時に、彼にとっての生きる根拠といったものだ。

 人間には、生きる根拠を求めながら生きていく人と、そうでない人とがいる。
 なぜ自分が生きるかと問うとき、必ずそこには自分一人ではない自分を発見する。自分一人がいくら考えても、生きる根拠は見いだせない。それを問うときには、必ず他者がいる。他者、それは具体的に生きている人間でもあれば、抽象化された人間でもあれば、あるいは過去に生きた人でもある。自分自身を、そうした他者を参照軸にして、自分自身の生を吟味していく。生きる根拠というのは、日々創造していくものである。

 鶴見の「根拠」を読んでいると、そこには通奏低音のように、もとハンセン病の人々の生やことばが聞こえてくる。もとハンセン病の人たちを「底辺に生きる人」という言い方は申し訳ない気持ちがあるが、しかしそれでも差別と偏見のなか、人間としての自由な生き方を大きく制約され、「隔離施設」のなかでしか生を許されなかった、その点で「底辺に生きる人」と表現させていただくが、鶴見はそうした人々を参照軸として自らの生を考えてきたようだ。

 鶴見のあのことばは、おそらく自由な生を非現実とされたもとハンセン病患者、だからこそ精神を研ぎ澄まし、自由に飛翔させ、珠玉のことばを紡ぎ出してきた人々の傍らに自己を置いたからだされたものだろうと、私は勝手に推測する。

 もとハンセン病患者と接するとき、あるいはその周辺に生きた人々の生に接するとき、そこで私は自分には真似のできない一群の人々を発見する。私は頭を垂れて、そうした人々のことばや生き方を学ぶ。

 鶴見も、同じように、彼らから学んできたようだ。

 美しいことばは、峻烈な生を背景に生まれる、そう思う。いくら美しい語句を並べても、美しいことばにはなり得ない。その背後に峻烈な、それでいて特別ではないふつうの人間の生がある。美しいことばとは、人間の生が刻み込んだものではないか。



 
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