読みながら考え、考えながら読み進めた。
著者がなぜこの本を書いたのか、その理由の一部が下記に記されている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42595
実を言うと、著者の
「日本に「人間社会」は、実際には存在していなかったのだ。日本という概念枠組みの中に社会はなく、国(国家)のみがあり、したがって日本人とは日本国民でしかなかったのだ」(221)
などという指摘に同感しつつ、いまだそれを自分自身のことばで説明できないでいる。その理由は、著者がみずからの主張を多方面から照射していないところにあると思われる。デュルケムのある種のテーゼをもとに、ゾラ、永井荷風や幸徳秋水の「社会」に対する思考を解剖し、その意味内容を浮き彫りにしながら、その結果日本には「社会」はなかった、現在もない、ということを主張するのだが、私はやはり歴史的な思考があるので、では近世はどうだったのか、近代の初発からなかったのかなど、そうした疑問をもつので、にわかに納得したというわけにはいかないのである。
だがしかし、現在の政治状況をみると、「社会」は縮小してきている、と思う。その代わりに国家権力との対応の中に位置づけられる「国民」が増えてきている。近代日本国家において、「社会」の拡大縮小と、国家権力の萎縮と肥大とが対応していることは事実であろう。そうした歴史的事実と著者の所論との整合性が、いまだ私のなかにつながっていないのだ。
しかし、考える契機になる。同時に、幸徳秋水の「社会」と「国体」に関する腑分けはとても参考になった。
著者がなぜこの本を書いたのか、その理由の一部が下記に記されている。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42595
実を言うと、著者の
「日本に「人間社会」は、実際には存在していなかったのだ。日本という概念枠組みの中に社会はなく、国(国家)のみがあり、したがって日本人とは日本国民でしかなかったのだ」(221)
などという指摘に同感しつつ、いまだそれを自分自身のことばで説明できないでいる。その理由は、著者がみずからの主張を多方面から照射していないところにあると思われる。デュルケムのある種のテーゼをもとに、ゾラ、永井荷風や幸徳秋水の「社会」に対する思考を解剖し、その意味内容を浮き彫りにしながら、その結果日本には「社会」はなかった、現在もない、ということを主張するのだが、私はやはり歴史的な思考があるので、では近世はどうだったのか、近代の初発からなかったのかなど、そうした疑問をもつので、にわかに納得したというわけにはいかないのである。
だがしかし、現在の政治状況をみると、「社会」は縮小してきている、と思う。その代わりに国家権力との対応の中に位置づけられる「国民」が増えてきている。近代日本国家において、「社会」の拡大縮小と、国家権力の萎縮と肥大とが対応していることは事実であろう。そうした歴史的事実と著者の所論との整合性が、いまだ私のなかにつながっていないのだ。
しかし、考える契機になる。同時に、幸徳秋水の「社会」と「国体」に関する腑分けはとても参考になった。