『芸術新潮』3月号の特集は、ミュシャである。今国立新美術館で行われているミュシャ展の展示、全20点の巨大なスケールの「スラブ叙事詩」を掲載している。ミュシャと言えば、花に彩られた豪華な美しい女性の絵が有名で、私はそれしか知らなかったのだが、そうではない歴史写実的なものがあった。
今日、NHKの日曜美術館でミュシャを取り上げていた。「スラブ叙事詩」の絵は、『芸術新潮』の写真よりテレビ画面のほうがきちんとみることができた。これは東京まで行かなければならないのかなと思った。
http://www.mucha2017.jp/
というのも、ミュシャの豪華な女性の絵は写真でも充分だが、「スラブ叙事詩」は、みずからの目でみないと分からないし、語れない。
以前にも書いたが、絵はみずから語ることをしない。それにことばで表現されているわけでもない。絵を見る自分が、絵と対面する中で、その絵をことばで表現しようとする。おそらく、そのことばは人によって異なるだろうと思う。芸術はそうでなくてはならない。演劇でもそうであるが、みる人の感想が全く同じであったのなら、それは芸術ではない。
芸術を鑑賞するというのは、まったくの個人的な作業である。絵で言うならば、その絵に自分は何を見いだすのか。あるいは、絵が語りかけるものを、自分はどう受けとるのか。
「ヴォドニュヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー」のほぼ中央に、絵を見る者をみつめる女性が描かれている。『芸術新潮』の写真の場合は、絵が小さく、その女性の顔の表情は見えない。テレビでは、その女性の眼が映し出されていた。
この絵は、その女性の表情や眼をみつめないと、それが語りかけるなにものかを知ることはできない。ナマの絵を見るという意味がそこにある。
展覧会で図録を購入することがあるが、その図録の写真、最近はよくなってきたが、やはり現物とは大きく異なる。光が違う。本物の絵は、光をみずから放つ。写真は、光を反射する。
スペインに行って、ゴヤの「着衣のマハ」と「裸のマハ」の実物をみた時、それに気付いた。
日曜美術館の問題点。絵はみずから語ることはない。しかし、その番組の司会をする者は、絵を前にして話す。今は、井浦新という男性と女性アナウンサーがその役をしているが、井浦のコメントはいらない。井浦のコメントを話させるなら、ただ絵を映し出しておくだけでよい。彼のコメントは、私にとっては雑音である。
絵はみずから語らない、だから見る者に語らせて欲しい、誰にも邪魔されずに。
今日、NHKの日曜美術館でミュシャを取り上げていた。「スラブ叙事詩」の絵は、『芸術新潮』の写真よりテレビ画面のほうがきちんとみることができた。これは東京まで行かなければならないのかなと思った。
http://www.mucha2017.jp/
というのも、ミュシャの豪華な女性の絵は写真でも充分だが、「スラブ叙事詩」は、みずからの目でみないと分からないし、語れない。
以前にも書いたが、絵はみずから語ることをしない。それにことばで表現されているわけでもない。絵を見る自分が、絵と対面する中で、その絵をことばで表現しようとする。おそらく、そのことばは人によって異なるだろうと思う。芸術はそうでなくてはならない。演劇でもそうであるが、みる人の感想が全く同じであったのなら、それは芸術ではない。
芸術を鑑賞するというのは、まったくの個人的な作業である。絵で言うならば、その絵に自分は何を見いだすのか。あるいは、絵が語りかけるものを、自分はどう受けとるのか。
「ヴォドニュヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー」のほぼ中央に、絵を見る者をみつめる女性が描かれている。『芸術新潮』の写真の場合は、絵が小さく、その女性の顔の表情は見えない。テレビでは、その女性の眼が映し出されていた。
この絵は、その女性の表情や眼をみつめないと、それが語りかけるなにものかを知ることはできない。ナマの絵を見るという意味がそこにある。
展覧会で図録を購入することがあるが、その図録の写真、最近はよくなってきたが、やはり現物とは大きく異なる。光が違う。本物の絵は、光をみずから放つ。写真は、光を反射する。
スペインに行って、ゴヤの「着衣のマハ」と「裸のマハ」の実物をみた時、それに気付いた。
日曜美術館の問題点。絵はみずから語ることはない。しかし、その番組の司会をする者は、絵を前にして話す。今は、井浦新という男性と女性アナウンサーがその役をしているが、井浦のコメントはいらない。井浦のコメントを話させるなら、ただ絵を映し出しておくだけでよい。彼のコメントは、私にとっては雑音である。
絵はみずから語らない、だから見る者に語らせて欲しい、誰にも邪魔されずに。