本日、この本を読み終えた。すべてではないが、教えられ、考えさせられる本であった。その内容については、中途で紹介もしているので、詳しく書くことはしないが、いずれにしても読む価値のある本である。
はじめにある「方法としてのアナキズム」は、これもアナキズムについて考える契機になろう。
鶴見は、
「アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」
と大まかに定義できる、と記す。私もアナキズムについて考え始めているが、この定義であるとするなら、それはあえてアナキズムと言わなくても、日本の歴史においても、現代でも、恒常的に出現する考えである。しかし、それがある種のイデオロギーとして動き始めるとき、政治権力から疎まれ、多くの場合消されていく。ロシア革命然り、スペイン戦争然りである。
だが、
「現代のように国家が強大になって、政府の統制力が人間の生活のすみずみにまで及んで来ている時には、国家が人間の生活にたちいってくるのに対してたたかう力を準備しなくてはならない。その力をつくる思想として、アナキズムは、存在理由をもつ」
と鶴見は記すが、歴史の中に恒常的に存在する思想であるからこそ、それはいつの時代でも存在理由をもつのである。
もうひとつ、昨日『神奈川大学評論』最新号を紹介した。
鶴見は、こう記している。
ソビエトロシアは、大正時代の東大新人会以来、日本の進歩的知識人が理想化してきた思想の実現形態だった。その実状が理想からほど遠いことがあきらかになり、ソ連という国家も今や消滅した。この事実が、社会改革の理想のおとろえをもたらしている。しかし、それでは、これまでの私たちの社会改革への熱情が、ソ連という国家の存在に支えられていたという判断を事実によってうらづけることになり、日本の進歩思想はソ連の国家(実は政府)への拍手にすぎなかったということになる。(391)
社会主義思想や、社会主義法など、社会主義に関する学問を専門にしていた学者があんがいいた。しかしソ連の崩壊など、いわゆる「社会主義」勢力の決定的な後退の中で、いそいそとその専門から、なし崩し的に離れていった学者がいる。もちろん人間は変わる、その思想が変わることはありうる、しかし学者として講義した者は、なぜ離れるのか、それをきちんと総括すべきであった。それなしに離れていくことは、学問的にはあってはいけない。
だからこそ、ロシア革命については、100年の今、考えるべきなのだ。
はじめにある「方法としてのアナキズム」は、これもアナキズムについて考える契機になろう。
鶴見は、
「アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」
と大まかに定義できる、と記す。私もアナキズムについて考え始めているが、この定義であるとするなら、それはあえてアナキズムと言わなくても、日本の歴史においても、現代でも、恒常的に出現する考えである。しかし、それがある種のイデオロギーとして動き始めるとき、政治権力から疎まれ、多くの場合消されていく。ロシア革命然り、スペイン戦争然りである。
だが、
「現代のように国家が強大になって、政府の統制力が人間の生活のすみずみにまで及んで来ている時には、国家が人間の生活にたちいってくるのに対してたたかう力を準備しなくてはならない。その力をつくる思想として、アナキズムは、存在理由をもつ」
と鶴見は記すが、歴史の中に恒常的に存在する思想であるからこそ、それはいつの時代でも存在理由をもつのである。
もうひとつ、昨日『神奈川大学評論』最新号を紹介した。
鶴見は、こう記している。
ソビエトロシアは、大正時代の東大新人会以来、日本の進歩的知識人が理想化してきた思想の実現形態だった。その実状が理想からほど遠いことがあきらかになり、ソ連という国家も今や消滅した。この事実が、社会改革の理想のおとろえをもたらしている。しかし、それでは、これまでの私たちの社会改革への熱情が、ソ連という国家の存在に支えられていたという判断を事実によってうらづけることになり、日本の進歩思想はソ連の国家(実は政府)への拍手にすぎなかったということになる。(391)
社会主義思想や、社会主義法など、社会主義に関する学問を専門にしていた学者があんがいいた。しかしソ連の崩壊など、いわゆる「社会主義」勢力の決定的な後退の中で、いそいそとその専門から、なし崩し的に離れていった学者がいる。もちろん人間は変わる、その思想が変わることはありうる、しかし学者として講義した者は、なぜ離れるのか、それをきちんと総括すべきであった。それなしに離れていくことは、学問的にはあってはいけない。
だからこそ、ロシア革命については、100年の今、考えるべきなのだ。