『神奈川大学評論』86号の「特集」は「ロシア・東欧の100年」。今それを読んでいる。いずれその内容を紹介するが、ひとつ、悪文を発見した。
悪文を書く人は、傲慢、あるいは自信過剰の人が多い。
一般的には、自分自身が書いた文が他者に理解されるかどうかを考えながら執筆する。理解してもらうために書くのだから、こうした配慮は当たり前のことだ。
しかし傲慢で自信過剰の人物は、こうした配慮をしない。彼らにとって文を書くという行為は、みずからの自信(この場合の自信は客観的な評価によるものではなく、根拠なき自信のことである)を開陳するためであってそれ以外ではない。
たとえばこの文章のなかの悪文に、
ソ連の「東欧」再編は冷戦体制の構築であったよりも、本質的には中欧の「小帝国主義」(ドイツ・ハンガリー・ポーランド)の息を止め17世紀の「旧30年戦争」を最終的に終焉させる覇権を行使したのである。
・・まずもって「ハプスブルク帝国」なる「僭称」を実体的に考え過ぎではならず、・・・
などがある。
この文章の最初の文が、
ロシア革命によって生誕した国家権力は、「国家の死」を迎える気配すら見せず崩壊してしまった。
である。この文において、「国家の死」とはいかなることを意味するのか説明すべきである。「国家の死」ということばは一般的なものではないからだ。
次の文も、ソ連の崩壊を「ソ連解散」と記すのだが、なぜ「解散」と表現するのか、それも説明すべきであるがない。
このように、一般的でない語彙を各所にちりばめ、それについて説明はしない。
自分だけの世界を、自分だけに通じる語彙で描く。読む者にとっては、理解不能の文章というしかない。
だが学界では、こういうわけのわからない文章でもなぜか評価されることがある。わけがわからないからおそらくすごいことを書いているのだろうと推測させてしまうのだ。この著者は、以前にもこの雑誌に原稿を寄せているようだから、評価されているのだろうが、悪文を読まされてきたわたしはだまされない。
わたしは我慢して読み進めたが、途中であきらめた。主語が不明な文があるからだ(1ヶ所ではない!)。主語がなく、ただだらだらと叙述されると、もう読み続けることができない。
『神奈川大学評論』を評価していたが、こういう悪文を書く人の文は載せるべきではない。なぜか。そこで読む気力が萎えてしまうからだが、もうひとつ、同誌の評価をぐっと下げるからでもある。
この号に掲載されている文の中で、この人の文がもっとも長い。
悪文を書く人は、傲慢、あるいは自信過剰の人が多い。
一般的には、自分自身が書いた文が他者に理解されるかどうかを考えながら執筆する。理解してもらうために書くのだから、こうした配慮は当たり前のことだ。
しかし傲慢で自信過剰の人物は、こうした配慮をしない。彼らにとって文を書くという行為は、みずからの自信(この場合の自信は客観的な評価によるものではなく、根拠なき自信のことである)を開陳するためであってそれ以外ではない。
たとえばこの文章のなかの悪文に、
ソ連の「東欧」再編は冷戦体制の構築であったよりも、本質的には中欧の「小帝国主義」(ドイツ・ハンガリー・ポーランド)の息を止め17世紀の「旧30年戦争」を最終的に終焉させる覇権を行使したのである。
・・まずもって「ハプスブルク帝国」なる「僭称」を実体的に考え過ぎではならず、・・・
などがある。
この文章の最初の文が、
ロシア革命によって生誕した国家権力は、「国家の死」を迎える気配すら見せず崩壊してしまった。
である。この文において、「国家の死」とはいかなることを意味するのか説明すべきである。「国家の死」ということばは一般的なものではないからだ。
次の文も、ソ連の崩壊を「ソ連解散」と記すのだが、なぜ「解散」と表現するのか、それも説明すべきであるがない。
このように、一般的でない語彙を各所にちりばめ、それについて説明はしない。
自分だけの世界を、自分だけに通じる語彙で描く。読む者にとっては、理解不能の文章というしかない。
だが学界では、こういうわけのわからない文章でもなぜか評価されることがある。わけがわからないからおそらくすごいことを書いているのだろうと推測させてしまうのだ。この著者は、以前にもこの雑誌に原稿を寄せているようだから、評価されているのだろうが、悪文を読まされてきたわたしはだまされない。
わたしは我慢して読み進めたが、途中であきらめた。主語が不明な文があるからだ(1ヶ所ではない!)。主語がなく、ただだらだらと叙述されると、もう読み続けることができない。
『神奈川大学評論』を評価していたが、こういう悪文を書く人の文は載せるべきではない。なぜか。そこで読む気力が萎えてしまうからだが、もうひとつ、同誌の評価をぐっと下げるからでもある。
この号に掲載されている文の中で、この人の文がもっとも長い。