昨日、真鍋祐子「死者への追悼と社会変革――韓国民主化闘争を振り返る」を紹介した。その講演録を読み、学んだことがあった。韓国に於ける「反日」の「日」は、現在の日本ではなく、韓国社会に残っている日本帝国主義の残滓であるということ、を。
日本こそ、残滓になっていない日本帝国主義を払拭していかなければならない。
さて韓国の民主主義的な運動に、私は敬意をもっている。現在の文政権を生み出した民主主義を求める運動、しかしそのなかに光州事件をはじめ、様々な犠牲があった。
その犠牲は、実は1919年の3・1独立運動からのようだ。朝鮮半島の民衆が、日本の帝国主義的侵略・植民地支配に抗して立ち上がった事件である。このときも、朝鮮半島ではたくさんの人が犠牲となった。そこから始まる民衆の運動が、様々な文化を生み出しながら、光州事件を経て、現在の韓国に続いている。その背景には、韓国の死生観があるという。
また韓国には民衆歌謡、民衆美術などがある。かつてあった日本のプロレタリア芸術運動とは異なるものだ。
今年私は小林多喜二について話すことになっている。日本のプロレタリア文学を代表する多喜二、それを浮き彫りにするために、韓国の民衆の芸術を比較検討すればより意義深いものになるのではないかと思った。
真鍋さんの本を読もう。今日、『韓国の民衆美術』(岩波書店)を注文した。知りたいことはたくさんある。