著者である日野記者は、今迄福島原発事故に関わる報道に従事し、それに関する著書を発表してきた。私も、岩波新書のそれは読んできたが、いずれも新聞報道だけでは不十分なことを、そして権力側が嫌うような内容を堂々と発表してきた。しかし彼は原発取材から離れたようで、この本が原発事故関連の最後の本であるという。
本書を読んでいると、官僚たちは、別に森友問題をまつまでもなく、ずっと以前から公文書の改ざん、隠蔽などを平気で行ってきたこと、官僚の世界ではそれが一般的であることを証明しているようだ。
官僚たちは、密室であることを決める。それがうまく運ぶように「理論武装」する。そのために「有識者」を集めてご意見を伺う。集められた「有識者」たちも官僚のために、知恵を絞る。国民を騙すための「論理」を編み出すのだ。もちろんそのプロセスが明らかにならないように、議事録などを隠す。あるいは公表する場合は、改ざんはするし、隠す。
その決められたことに異議を唱える人びととは一応は話す。しかしいっさい聞くことはない。決めたことを通すために、そういう人たちを懐柔しようとする、それが無理だとわかると無視。
著者は、こう記す。
いとも簡単に歴史を改竄できるのがこの国の現実なのだ。
そしてその原動力は、経産省だけではなく、環境省も、原発事故をなかったことにしたい、その基本線を維持すべく、いい加減な対応、国民が文句を言わなくなるまで、あるいは忘れるまで、密室で決めたことを住民に一方的におしつける、カネをつかって作業を行う、その作業もいい加減だ、やっているという姿を見せればいいのだから。
のらりくらりと生きていれば、彼らは出世していく。
そういう姿が活写される。
最近の新聞報道やこの本に書かれている内容をみると、日本国家とはそういう国家なのだというある種の諦観が浮かび上がる。
日本には、民主主義が根づいていない。しかし、そういうなかで、人びとが切り捨てられていく。切り捨てさせてはいけない。
よい本である。原発事故に対応する国家機関、自治体の姿は、日本とはどういう国であるかを考える重要な契機となるだろう。
本書を読んでいると、官僚たちは、別に森友問題をまつまでもなく、ずっと以前から公文書の改ざん、隠蔽などを平気で行ってきたこと、官僚の世界ではそれが一般的であることを証明しているようだ。
官僚たちは、密室であることを決める。それがうまく運ぶように「理論武装」する。そのために「有識者」を集めてご意見を伺う。集められた「有識者」たちも官僚のために、知恵を絞る。国民を騙すための「論理」を編み出すのだ。もちろんそのプロセスが明らかにならないように、議事録などを隠す。あるいは公表する場合は、改ざんはするし、隠す。
その決められたことに異議を唱える人びととは一応は話す。しかしいっさい聞くことはない。決めたことを通すために、そういう人たちを懐柔しようとする、それが無理だとわかると無視。
著者は、こう記す。
いとも簡単に歴史を改竄できるのがこの国の現実なのだ。
そしてその原動力は、経産省だけではなく、環境省も、原発事故をなかったことにしたい、その基本線を維持すべく、いい加減な対応、国民が文句を言わなくなるまで、あるいは忘れるまで、密室で決めたことを住民に一方的におしつける、カネをつかって作業を行う、その作業もいい加減だ、やっているという姿を見せればいいのだから。
のらりくらりと生きていれば、彼らは出世していく。
そういう姿が活写される。
最近の新聞報道やこの本に書かれている内容をみると、日本国家とはそういう国家なのだというある種の諦観が浮かび上がる。
日本には、民主主義が根づいていない。しかし、そういうなかで、人びとが切り捨てられていく。切り捨てさせてはいけない。
よい本である。原発事故に対応する国家機関、自治体の姿は、日本とはどういう国であるかを考える重要な契機となるだろう。