高校時代の一つ上の先輩のKさんから電話があった。話すのは本当にほんとうに久しぶりであった。
私の高校時代、ベトナムでは、ベトナムの民衆が、侵略してきたアメリカ帝国主義と戦っていた。その凄まじいまでの残酷さに、当時の若者は心を痛めていた。最近は戦闘の写真、当然そこには死体が転がり、血が流れている、を見ることはなくなったが、私が高校生の頃、そういう写真は新聞でも見られた。同じ人間として、こういうことはあってはならないという正義感なり倫理感は、誰もがもっていたことだろう。
Kさんも、私もベトナム反戦の運動に関わっていた。人間として許せない!、人間としての怒りがその原動力であった。
Kさんは、高校からひとりひとりにあてがわれていたロッカーにベトナム反戦の本を入れていて、そうした本を読むことをすすめていた。またKさんは校内で行われた弁論大会で、しばしば弁論を行った。そのひとつに「刺青と彫師」というものがあった。その内容もベトナム戦争に係わるもので、私たちは彫師として歴史に平和という「刺青」を彫っていかなければならない、というような内容であった。今日の電話では、その内容を本人は忘れているようであった。
人間として許せない、と考えた高校生は、その当時たくさんいた。私たちは「社会科学研究会」、通称「社研」を組織した。もちろん届け出たわけではない。
その「社研」ではどういうことをやったのか、ほとんど記憶はないのだが、そこに集っていた人々の顔は思い出すことができる。何度も会っていたはずだ。
高校を卒業して、私はKさんだけには会ったことがある。といってもKさんが大学を卒業するかしないかの頃で、Kさんの結婚式に出た。当時東京から静岡まで、「東海〇号」という急行があり、私はそれに乗って東京・静岡を往復した。
Kさんは静岡大学人文学部に進学、卒論は中世史、個別荘園の研究であった。卒業後は神奈川県の中学校の教員となった。そして今も平和に関わることをしている。
高校時代に持った思い、人間として許せない!という感性は、今もなお、Kさんにも私にも生きている。
思春期にもったそうした思いは、捨てることができない。捨てるということは、自分自身を裏切ることになる。おそらく死ぬまで持ち続けることだろう。
あの頃、同じような思いを持った「社研」の人々は、その後、どういった生き方をしてきたのだろうか。
私の高校時代、ベトナムでは、ベトナムの民衆が、侵略してきたアメリカ帝国主義と戦っていた。その凄まじいまでの残酷さに、当時の若者は心を痛めていた。最近は戦闘の写真、当然そこには死体が転がり、血が流れている、を見ることはなくなったが、私が高校生の頃、そういう写真は新聞でも見られた。同じ人間として、こういうことはあってはならないという正義感なり倫理感は、誰もがもっていたことだろう。
Kさんも、私もベトナム反戦の運動に関わっていた。人間として許せない!、人間としての怒りがその原動力であった。
Kさんは、高校からひとりひとりにあてがわれていたロッカーにベトナム反戦の本を入れていて、そうした本を読むことをすすめていた。またKさんは校内で行われた弁論大会で、しばしば弁論を行った。そのひとつに「刺青と彫師」というものがあった。その内容もベトナム戦争に係わるもので、私たちは彫師として歴史に平和という「刺青」を彫っていかなければならない、というような内容であった。今日の電話では、その内容を本人は忘れているようであった。
人間として許せない、と考えた高校生は、その当時たくさんいた。私たちは「社会科学研究会」、通称「社研」を組織した。もちろん届け出たわけではない。
その「社研」ではどういうことをやったのか、ほとんど記憶はないのだが、そこに集っていた人々の顔は思い出すことができる。何度も会っていたはずだ。
高校を卒業して、私はKさんだけには会ったことがある。といってもKさんが大学を卒業するかしないかの頃で、Kさんの結婚式に出た。当時東京から静岡まで、「東海〇号」という急行があり、私はそれに乗って東京・静岡を往復した。
Kさんは静岡大学人文学部に進学、卒論は中世史、個別荘園の研究であった。卒業後は神奈川県の中学校の教員となった。そして今も平和に関わることをしている。
高校時代に持った思い、人間として許せない!という感性は、今もなお、Kさんにも私にも生きている。
思春期にもったそうした思いは、捨てることができない。捨てるということは、自分自身を裏切ることになる。おそらく死ぬまで持ち続けることだろう。
あの頃、同じような思いを持った「社研」の人々は、その後、どういった生き方をしてきたのだろうか。