『東京新聞』6月14日付の「新聞を読んで」というコラムに、上西充子さんが「「反発」と見る目線」を書いている。
その出だしをここに書いておこう。
このところ各紙の記事中の「反発」の文字に目が留まる。「誤解を招くこととなりおわびしたい」という釈明と同様の違和感があるのだ。「誤解を」という釈明には、「誤解したらそちらの側に問題はあるのだが、仕方がないのでこちらが頭を下げてやろう」という思いが感じられる。同様に「反発」という文字からは「わけも分からず感情的にいきり立って、やっかいな人たちだ」という目線を感じるのだ。
『朝日新聞』も『読売新聞』も『毎日新聞』も、そして『東京新聞』も「世論の反発」とか「野党は反発」とか「反発」ということばを多用している。
上西さんは
記者としては、「野党は反発」「世論は反発」と記しても見下しているつもりはなく、簡潔な表現として用いているだけかもしれない。しかし、では「検察OBも反発」と書くだろうか。
と疑問を呈している。
たしかに記者たちに「見下している」という思いはないかもしれない。しかしその目線は権力者と同じなのだ。記者たちは権力者と同じ立場にいて、権力者への批判や抗議を「反発」と捉えているのである。それが「反発」ということばの使用となって現れるのだ。
結果的には権力者の視線から「見下している」のである。
そういう視線から書かれた記事であることを前提に、私たちは記事を解読していかなければならない。
その出だしをここに書いておこう。
このところ各紙の記事中の「反発」の文字に目が留まる。「誤解を招くこととなりおわびしたい」という釈明と同様の違和感があるのだ。「誤解を」という釈明には、「誤解したらそちらの側に問題はあるのだが、仕方がないのでこちらが頭を下げてやろう」という思いが感じられる。同様に「反発」という文字からは「わけも分からず感情的にいきり立って、やっかいな人たちだ」という目線を感じるのだ。
『朝日新聞』も『読売新聞』も『毎日新聞』も、そして『東京新聞』も「世論の反発」とか「野党は反発」とか「反発」ということばを多用している。
上西さんは
記者としては、「野党は反発」「世論は反発」と記しても見下しているつもりはなく、簡潔な表現として用いているだけかもしれない。しかし、では「検察OBも反発」と書くだろうか。
と疑問を呈している。
たしかに記者たちに「見下している」という思いはないかもしれない。しかしその目線は権力者と同じなのだ。記者たちは権力者と同じ立場にいて、権力者への批判や抗議を「反発」と捉えているのである。それが「反発」ということばの使用となって現れるのだ。
結果的には権力者の視線から「見下している」のである。
そういう視線から書かれた記事であることを前提に、私たちは記事を解読していかなければならない。