今月号の『世界』の第二特集は「共犯のマスメディアージャーナリズム再生の道筋」として、河原仁志、立岩陽一郎、山田健太の3人が原稿を寄せている。その中で、マスメディアの現状を厳しく問うているのは立岩である。立岩の主張については、後ほど紹介する。
河原の文は毒にも薬にもならないもので、一度読んではみたが、すぐに忘れるであろう、インパクトに欠けた内容であった。こういう文章に私は「現状肯定」を感じてしまうのだ。
「権力の監視はメディアの最大の仕事だ。平時か危機時かにかかわらずメディアは権力と距離を置くことが求められる。一方で、記者は権力の懐に入らないとネタは取れない。懐に入るためには、したたかさも必要である。距離を置くことと懐に入ること。その「間合い」をどう取るかは記者の重要な資質の一つだ。」
その下段にまた同じような記述がある。
「記者が権力の懐に入るのは情報得るためだ。しかし、読者にとってその情報が届かなければ意味がないことは紛れもない事実である。」
黒川某と新聞記者三人が賭けマージャンをしていたことが明らかになったが、問題となっているのは、記者が「権力者の懐に入る」ことそのものについて厳しく問うことが、今必要ではないのか。これを記した河原には、そうした問題意識はない。はっきり言って、読む必要はない。
立岩の文は、「危機に自ら陥るマスメディア」、副題には「権力との共犯関係を自覚できるか」という鋭い問いかけである。実際、首相の記者会見を見れば明らかなように、あの記者会見はある種のセレモニーで、首相と官僚と記者が一緒になって、政府の情報を国民に「下賜」するというセレモニーである。もちろんその情報は、政府の統制の中にあるものであって、その情報について、記者が鋭く詰問するということはまったくない。首相の記者会見は、政府の考えを押しいただくメディアが、それをそのまま報じるというものでしかない。
それを立岩は、記者が権力と共犯関係にある、と断じているのである。果たしてメディア関係者がそれを自覚できるかどうかを問うのである。
しかし、それは、私見ではムリである、と言わざるをえない。
山田健太の「メディアの変容と民主主義」であるが、これもまたあまり読む価値のない文章であった。
メディアについては、毎号掲載されている神保太郎の「メディア批評」は読むに値する文である。
神保は、黒川某のスキャンダル事件に関して、「メディアよ、お前は誰の味方なのか?」と問う。あるいは、「「書かない」、「主張できない」はメディアとしての敗北である」と書く。
また院内感染などCOVID-19 関連の報道に関しては、
「危機はメディアにとって正念場である。ところが、危機になると日本のメディアはなぜか萎縮し、自前の取材を諦め役所情報を頼る」
「日本のメディアは官邸や東京電力の定時発表を報じていた。真実の掘り起こしより、人々を動揺させないこと、足並みを乱さないことを優先する。」
「トラブルがつきまとう「掘り起こし」より、苦情がこない「発表もの」へと靡いている。感染対策は厚労省、経済対策は内閣府。発信は感染渦巻く現場からではなく役所から。役人や学者によるレクチャーや勉強会が頻繁に行われ、記者はは洗脳される。」
神保の最後の文は、
「慣れ合っている場合ではないのである。」だ。メディア関係者と権力は、なれ合っている。しかし神保が怒りをたたきつけても、それがなくなることはない、と私は思っている。なれ合いの場は、おそらく記者にとっては居心地がよいのである。
河原の文は毒にも薬にもならないもので、一度読んではみたが、すぐに忘れるであろう、インパクトに欠けた内容であった。こういう文章に私は「現状肯定」を感じてしまうのだ。
「権力の監視はメディアの最大の仕事だ。平時か危機時かにかかわらずメディアは権力と距離を置くことが求められる。一方で、記者は権力の懐に入らないとネタは取れない。懐に入るためには、したたかさも必要である。距離を置くことと懐に入ること。その「間合い」をどう取るかは記者の重要な資質の一つだ。」
その下段にまた同じような記述がある。
「記者が権力の懐に入るのは情報得るためだ。しかし、読者にとってその情報が届かなければ意味がないことは紛れもない事実である。」
黒川某と新聞記者三人が賭けマージャンをしていたことが明らかになったが、問題となっているのは、記者が「権力者の懐に入る」ことそのものについて厳しく問うことが、今必要ではないのか。これを記した河原には、そうした問題意識はない。はっきり言って、読む必要はない。
立岩の文は、「危機に自ら陥るマスメディア」、副題には「権力との共犯関係を自覚できるか」という鋭い問いかけである。実際、首相の記者会見を見れば明らかなように、あの記者会見はある種のセレモニーで、首相と官僚と記者が一緒になって、政府の情報を国民に「下賜」するというセレモニーである。もちろんその情報は、政府の統制の中にあるものであって、その情報について、記者が鋭く詰問するということはまったくない。首相の記者会見は、政府の考えを押しいただくメディアが、それをそのまま報じるというものでしかない。
それを立岩は、記者が権力と共犯関係にある、と断じているのである。果たしてメディア関係者がそれを自覚できるかどうかを問うのである。
しかし、それは、私見ではムリである、と言わざるをえない。
山田健太の「メディアの変容と民主主義」であるが、これもまたあまり読む価値のない文章であった。
メディアについては、毎号掲載されている神保太郎の「メディア批評」は読むに値する文である。
神保は、黒川某のスキャンダル事件に関して、「メディアよ、お前は誰の味方なのか?」と問う。あるいは、「「書かない」、「主張できない」はメディアとしての敗北である」と書く。
また院内感染などCOVID-19 関連の報道に関しては、
「危機はメディアにとって正念場である。ところが、危機になると日本のメディアはなぜか萎縮し、自前の取材を諦め役所情報を頼る」
「日本のメディアは官邸や東京電力の定時発表を報じていた。真実の掘り起こしより、人々を動揺させないこと、足並みを乱さないことを優先する。」
「トラブルがつきまとう「掘り起こし」より、苦情がこない「発表もの」へと靡いている。感染対策は厚労省、経済対策は内閣府。発信は感染渦巻く現場からではなく役所から。役人や学者によるレクチャーや勉強会が頻繁に行われ、記者はは洗脳される。」
神保の最後の文は、
「慣れ合っている場合ではないのである。」だ。メディア関係者と権力は、なれ合っている。しかし神保が怒りをたたきつけても、それがなくなることはない、と私は思っている。なれ合いの場は、おそらく記者にとっては居心地がよいのである。